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戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・米軍の枯葉剤作戦」


 今月は、石川文洋氏の『戦争と人間』の中から、ベトナム戦争時に使用した枯葉剤による被害をとらえた写真を紹介します。
 ベトナム戦争は一九六〇年から南北統一を巡って、米ソ東西両陣営の対立を背景に争われ、一九七五年まで続きました。
 枯葉剤の散布が始まったのは一九六一年八月からでした。アメリカ軍は、ゲリラ戦で闘う“ベトコン”兵士が潜んでいるジャングルの木々を枯らすことと、彼等の農産物を汚染し、食料として使えなくすることを目的として、一九七一年までの間に二万回にわたり、八万キロリットルを、二四三万ヘクタール(南ベトナム国土の二〇%)に撒布しました。
 この影響でマングローブの林が破壊され、枯葉剤に含まれているダイオキシンにより、人体にも癌や先天性障害などを引き起こしました。「史上最強の危険物」と言われるダイオキシンは、いちど体内に入ると蓄積され排出されにくく、土壌には百年経ってもなお残ると言われ、第二世代、第三世代に亘って影響を与えて続けています。
 石川氏は「戦争の実態を知らしめる写真には、戦争を防ぐ大きな力がある」という思いでシャッターを押し続けてきたそうです。ベトナム戦争時、基地の町コザと呼ばれた沖縄市では、石川氏の写真をヒストリート2で展示しています。是非ご覧下さい。
広報おきなわ(№434)/2010年(平成22年)8月号
【写真キャプション】枯葉剤作戦

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・沖縄選出 衆参国会議員」


 戦後の沖縄を代表する政治家が一同に写っています。タイトルは「勢揃いした沖縄選出衆参国会議員 東京一九七〇」。
 その道のりは簡単なものではなく、国政参加は復帰運動の柱の一つとして大きな位置付けがありました。一九六一(昭和三六)年に琉球立法院にて全会一致で沖縄住民の国政参加要請決議を行い、継続して、日本政府や国会に対して要請を行いますが、なかなか声は届きませんでした。アメリカの施政下、国内法が適用されないため、提案権や発言権のない〈オブザーバー方式〉での国政参加が提案されるなど、沖縄側の要請とは程遠いものでした。
 六八年八月、岸昌(きしさかえ)日本政府沖縄事務所長が全国紙に「国政参加、沖縄代表に評決権を」与えるよう私見を発表し、大きな展開をみせます。
 六九年三月にはコザ市議会が緊急動議として「沖縄代表の国政参加早期実現要請決議」を全会一致で可決、地方議会として国政参加決議は異例でした。九月には美里村議会でも全会一致で決議されました。
 同年十一月、日米共同声明で七二年の復帰が決まり、七〇年五月に国政参加特別措置法が公布され、沖縄からの国政参加が実現することになります。そして十一月、戦後、二五年かかって沖縄から七名の国会議員が誕生したのです。
広報おきなわ(№433)/2010年(平成22年)7月号
【写真キャプション】勢揃いした沖縄選出衆参国会議員

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・B52撤去闘争デモ」


 今月は、左の写真「ベトナム爆撃反対」を紹介します。これは、石川文洋氏が1969(昭和44)年2月4日、嘉手納基地前で撮影したB52撤去闘争デモの様子です。
 米戦略爆撃機「B52」は、ベトナム戦争が本格化した1965(昭和40)年頃から、台風避難を理由に根拠地のグアム島を離れ、たびたび嘉手納基地にその姿を見せ始めており、「黒い殺し屋」と形容される性格と撒き散らされる騒音に、周辺住民から反発が起きていました。また1968年2月5日からの常駐化や、同年11月19日に知花弾薬庫(沖縄市)付近で起きた墜落事故で、撤去闘争の気運が一気に高まりました。当時の新聞では、墜落現場付近に6箇所の核兵器貯蔵庫がある事で「誘爆すれば沖縄全滅」と報じており、B52による不安と恐怖は全琉に広がったのです。
 そして常駐から1年後の1969年「2・4ゼネスト」が計画されたのですが、主に日米両政府の沖 縄返還交渉を妨げる恐れがあるという理由で直 前回避されました。しかしながら当日、大雨の中、58団体4万人規模のデモが行われ、高校は全校休校、北美小学校など中部の小中学校では「B52特設授業」が設けられるなど、市民レベルでB52の撤去を強く要求しました。結局、同機は翌年9月まで常駐を続け、復帰後も約半年間は非難を浴びながら飛来を続けました。現在、黒い殺し屋B52は、再びグアム島に根拠地を移しています。
広報おきなわ(№432)/2010年(平成22年)6月号
【写真キャプション】『ベトナム爆撃反対』1969年2月4日、嘉手納基地前

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・日本復帰の日」


 今月15日で、沖縄は日本に復帰して38年目を迎える。石川文洋氏は復帰の日の24時間、沖縄の様々な表情を追い、各地でシャッターを切った。
 アメリカ世から大和世へ変わる1972年5月15日の午前零時に石川氏が那覇国際通りで撮影を始めた頃、本市ではコザ警察署(現沖縄署)が米兵のトラブルの絶えない歓楽街の取り締まりに出発。これまで民警察側は米憲兵隊に気兼ねしながら歓楽街を警戒していたが、同夜は民警察が捜査の主導権を握り、自信を持って取り締まりにあたった。しかし、いつもは米兵たちの歓声で賑わうセンター通りやゲート通りなどの歓楽街はひっそり。米兵も世替わりの瞬間を意識しているのか、復帰を記念して店の営業時間が一時間延長されたにも関わらず、殆ど姿を見せなかった。そのため大きな外人事件もなく、コザの歓楽街は新しい時代の幕開けを静かに迎えた。
 写真は、石川氏が撮った復帰当日のセンター通りの様子。前夜は外出を控えていた米兵たちは通りへと繰り出し、街は活気づいている様だ。
 賑やかなセンター通りだが、復帰後は円高ドル安の影響で衰退の一途をたどり、13年後の85年に邦人相手の中央パークアベニューへと変わるのである。
広報おきなわ(№431)/2010年(平成22年)5月号
【写真キャプション】センター通りのショークラブの前にたむろする米兵と女性

戦後文化シアター 今月のヒストリート「報道カメラマン・石川文洋氏」


 四月、新年度の始まりです。
 昨年九月にオープンしたヒストリートIIもこの半年で約六千人の見学者を迎えました。
 今月からこのコーナーでは石川文洋氏『戦争と人間』『沖縄わが故郷』の写真を紹介していきます。
 今回は、なぜ沖縄市(ヒストリートII)でベトナム戦争の写真を展示しているのかお話します。
 ベトナム戦争時、沖縄は米国の軍事行動の拠点でした。戦場へ送る物資の補給をはじめ米軍基地の機能は基地で働く沖縄の人々が支えていました。
 また、出征前の米兵たちがつかの間の自由を謳歌するために過ごした場所はコザを中心とする沖縄の歓楽街でした。
 ある意味沖縄はベトナム戦争の後方支援の場として存在していたのです。
 一方、ベトナム戦争と同時期に石川氏が沖縄で撮影した写真には基地撤去・反戦平和を訴える沖縄の人々の姿があります。
 ベトナムを攻撃するB52が発着した嘉手納基地を抱え、米兵たちで溢れる歓楽街を擁していた沖縄市はそれらのことから何を学び、未来へつなげていけばよいのでしょうか。
 石川氏の写真から見えてくるものがあれば幸いです。
広報おきなわ(№430)/2010年(平成22年)4月号
【写真キャプション】嘉手納基地からベトナムへ出撃するB52 1969年

戦後文化シアター 今月のヒストリート「出征幟(しゅっせいのぼり)」


 春の訪れを感じる三月です。先月末に閉幕した冬季オリンピックでは、各国を代表する選手たちが、それぞれの国の期待を背負って競技しました。その中で皆さんも、日本国を象徴するものとして、日の丸(国旗)に注目する機会が多かったと思います。
 今月ご紹介するのは、ヒストリートIIで展示中の「出征幟」です。出征幟には、写真のように日の丸と日章旗が描かれ、「祝 入営」と書かれています。入営とは、兵役に服すため兵営に入ることをいい、この幟は戦地へ赴く出征兵士を華々しく見送る為に作られました。召集令状が届くと、出征兵士は日の丸入りの出征幟の前で、日の丸の小旗を持った人たちに盛大に見送られたのです。県内では、那覇市に現存する染物店で、昭和一〇年代後半に出征幟を作っていました。
 本市では、一九四四(昭和一九)年一月、熊本へ出征した字美里出身の方から、出発の様子について証言が得られています。『美里からの戦さ世証言』から部分要約すると、「ラッパが奏でる行進曲の中、ヌンドゥルチヤーで必勝の神酒をもらって武運長久を祈願し、日の丸の小旗を持って県道に整列した人々によって万歳三唱で」送り出されたといいます。
 死出の旅にあたり今生の別れかも知れぬ場面で、堂々と掲げられた日の丸。平和の祭典オリンピックとは、全く異なるプレッシャーや期待を背負わされた人々が、かつて「華々しく」戦場へ旅立って行ってしまいました。
広報おきなわ(№429)/2010年(平成22年)3月号
【写真キャプション】ヒストリートIIに展示中の出征幟

戦後文化シアター 今月のヒストリート「テレビ」


 日本でテレビ放送が開始して今年で五七年になります。
 「AFTV沖縄」というテレビ放送局が一九五五(昭和三〇)年のクリスマスイブに嘉手納空軍基地内に開局しました。極東で米軍最初のテレビ放送です。同月には「基地の街にテレビ景気」という新聞見出しがみられ、米軍放送の開始をきっかけとして、コザの街では修理機を仕入れて、米人相手のテレビ修理を商売にする業者や、バーやカフェなどでも客引きのため、テレビを注文する店も出てきました。テレビ修理は米人たちに喜ばれたようです。
 沖縄での民間放送の開始は五九(昭和三四)年ですが、テレビがあれば米軍放送をみることは可能でした。西部劇やスポーツなどは英語でも楽しめたようです。
 一般家庭にテレビが普及し始めると、隣近所がテレビのある家に寄り集まってみるというのもありふれた光景でした。
 しかし民間放送が始まったことでコザ署がテレビ販売店に「道路上に視聴者がはみ出ないように注意」「テレビは道路に向けて放送しない」「視聴者が多いときは屋内または敷地内に収容する」などの注意を促しています。戦後「三種の神器」と呼ばれたテレビですが、娯楽も増えた現在、テレビの役割も変わりつつあるようです。
広報おきなわ(№428)/2010年(平成22年)2月号
【写真キャプション】手回し式チャンネルのテレビ

戦後文化シアター 今月のヒストリート「灯火管制」


 灯火管制とは夜間、敵機の来襲に備え、地上の状況を悟られないように減光・消灯することで、軍隊では一般的に行われていますが、民間地では特に第二次大戦における英国、日本などの例が知られています。灯火管制の方法は窓を塞いだり、照明に覆いをつけたりしますが、日本では1937(昭和12)年の「防空法」以後に、灯火管制用品の製造がはじまりました。
 写真上は日本の紙製電灯傘。電灯傘は本来、アルミなどの金属で作られますが、国内で金属が枯渇したために厚紙で代用されました。下は灯火管制用電球で、球内に遮光皮膜が塗られているため、光が拡散せず真下へ落ちる工夫がなされています。
 さて、沖縄では十五年戦争突入前の30年9月、那覇市を中心に与那原・糸満・泡瀬方面に亘って初の灯火管制訓練が行われました。実施日の夜はサイレンでの予報後、全ての電灯・ランプを5分間消灯しました。また39年10月に越来・美里など中部7ヵ村で防空訓練が実施された際には、具志川・勝連・与那城村などが灯火管制用品を共同購入し、完璧な灯火管制を目指したといいます。
 戦時中は頻繁に灯火管制が敷かれましたが、敗戦と同時に明るい夜が復活。しかし、朝鮮戦争の勃発で、米軍の前進基地となった沖縄で戦後初の灯火管制が実施されて以降、60年頃まで度たび行われることになります。
広報おきなわ(№427)/2010年(平成22年)1月号
【写真キャプション】上:粗悪な厚紙で作られた代用品の紙製電灯傘。/下:灯火管制用5W電球。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「三種の分銅」


 左の写真は、ヒストリートIIの入口に展示してある素材の違う三種類の分銅です。
 左から一九一〇~二〇年代に京都府で製造された鉄製分銅、三八~四五年に岐阜県や愛知県瀬戸市で製造された陶製分銅、四五~五〇年に沖縄で製造されたジュラルミン製分銅です。
 何故、製造された時代によって素材が変わっているのでしょうか?
 平時の分銅は鉄で作られますが、戦時中の金属類は兵器の材料として回収されるため鉄不足になります。それを補うために陶器の分銅が誕生。そして焦土と化した戦後は戦闘機の残骸を利用したジュラルミン製分銅が製造されます。
 ジュラルミン製と言えばナベ、ヤカン、アイロン等々、利用した経験のある人も多いと思います。
 それらの道具を製造するナービヤー(鋳物工場)は、四六~四九年頃には戦後第一の産業といわれるほど盛況で、市内では泡瀬や越来などにナービヤーがありました。『泡瀬誌』によると泡瀬一区には五、六カ所の工場があり、泡瀬塩田地域の一部に大量に埋められていたジュラルミンを利用したとされています。
 物言わぬ道具たちですが、その材質で当時の状況を如実に物語っているのです。
広報おきなわ(№426)/2009年(平成21年)12月号
【写真キャプション】三種の分銅

戦後文化シアター 今月のヒストリート「缶詰容器の代用品」


 今月は、ヒストリートIIから「陶製防衛食器」の紹介です。左の写真、一見フタ付きの湯呑みに似たこちらの焼き物は「防衛食器」と呼ばれるモノです。
 防衛食器は、一九四三(昭和一八)年、名古屋の陶器会社が製品化した陶器製の真空容器で、いわば缶詰容器の代用品でした。中には、煮豆などが入っていたとの事です。戦時下の大手陶磁器会社では、国内における金属資源の自給自足体制に資するため、さまざまな「代用品」を開発・製作していました。その技術は非常に高く、防衛食器に関しては製造から五〇年経っても内容物に異変がなかったという報告もあるほどです。
 こうした動きは一九四一年九月、「金属類回収令」の施行によって本格化され、巷では深刻な金属資源・製品の不足に見舞われていました。
 もちろん、本県や本市も全く他人事ではありません。本土同様、各家庭において日用品までも対象とした「金属の回収・供出」が行われていました。一九四二年十一月の新聞記事によれば、越来村(現・沖縄市)に二四〇円、美里村(現・沖縄市)に六〇〇円もの金額が、金属回収のための諸費補助金として交付されています。
 かつてこのような厳しい状況を、さまざまな「代用品」で、生き抜いてきた時代がありました。当時の道具が、それを雄弁に語っています。
広報おきなわ(№425)/2009年(平成21年)11月号
【写真キャプション】陶製防衛食器