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戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・企画展『ベトナム戦争と沖縄』、開催中」


 今月の二日から「ベトナム戦争と沖縄」をテーマに展示が始まります。石川文洋氏は報道カメラマンとしてベトナム戦争を撮影している時、沖縄戦と重ね合わせ、シャッターを切っていたと話していました。
 今月紹介する一枚は、ベトナムの戦場で傷つき、銃弾のあとが残るトラックです。一九六八年の新聞には「弾痕も生々しく/ベトナムから多量の軍車両/民間会社にも委託、修理」とあります(琉球新報六月一日)。ベトナムからの破損車両は那覇軍港で陸揚げされ、各軍部隊の修理工場へ運ばれますが、とうてい賄いきれず、中部の民間工場でも受け入れることになり、コザ市の工場では最優先で修理にあたっていたようです。当時、市内には八軒の工場と百十三人の従業員が雇用されていました。基地あるがゆえに、民間側も様々なかたちで後方支援としての役目を負わされますが、同時にベトナム景気の恩恵を多分に受け、基地経済に頼らざるをえない「基地の町」としての現実もありました。
 今年はベトナム戦争の終結から三六年、沖縄戦の終結から六六年になります。沖縄がどのような歴史を歩んできたのか、ベトナム戦争時のベトナムと沖縄の写真とを重ね合わせてみることで、今の沖縄を考える機会になることと思います。ぜひ、足をお運び下さい。
広報おきなわ(№444)/2011年(平成23年)6月号
【写真キャプション】銃弾の痕が残るトラックの窓(那覇軍港 1969年)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・企画展『世界の笑顔』、開催中」


 報道写真家の石川文洋氏は、1985年から2002年にかけて35の国々を訪れ、老若男女の写真を撮りためました。その中から選んだ50点の写真を、今月6日よりヒストリートⅡで「世界の笑顔」展として大公開!!
 様々な国で様々に生きている人々の素敵な笑顔をお届けします。
 写真はサハリン(樺太)在住のロシア国籍の朝鮮系女性。日本が朝鮮半島を統治していた時代、日本国籍を持つ朝鮮の人々も、出稼ぎや徴用による労働者として日本領だった南樺太に移住していました。第二次大戦末期の45年8月9日に対日参戦したソ連は南樺太へ侵攻。日本がポツダム宣言を受諾した8月15日以降も戦闘は続いてソ連軍は全島を制圧し、民間人も含め多数の犠牲者が出た戦いは終わりました。
 日本の敗戦後、ソ連当局の意向で殆どの朝鮮系住民は樺太に残留させられました。定住を余儀なくされた「在樺コリアン」は、ロシア国籍を取得した者が多く、戦後生まれはロシア語しか話せないようです。
 地上戦で焦土化した沖縄も戦後は日本から分離され、27年間米軍統治下に置かれましたが、英語は殆ど定着していません。一方で、米兵の発音の影響を受けた「ストゥ(シチュー)」「ハンバガー」といった〈耳英語言葉〉は、現在でもコザの一部食堂のメニューで見られます。
広報おきなわ(№443)/2011年(平成23年)5月号
【写真キャプション】サハリンの朝鮮系ロシア人女性

戦後文化シアター 今月のヒストリート「照屋林助の世界」


 ドルや世界の銭加那志やたしが あったに値打ちの ひっ下がってぃねーらんで ドルドルドンてぃば ドルドルドン・・・   「てるりん」こと照屋林助さんの作品「どるどるどん」の一節です。
 軽妙な表現の中に、人間や世の中の多面性を描き出し、人の世の苦しみや悲しみを笑いによって救済してしまうのが、彼の歌の特徴でした。
 ラジオ全盛期には「ワタブー」というニックネームで漫談家として大活躍。ラジオから流れる彼の漫談にひとり「イヒー、アハー」した覚えがある方も多いのではないでしょうか。
 脚本・歌詞などの作家としてだけではなく、1956年6月8日付けの沖縄タイムスには林助さんが二年かがりで研究を重ねて島産ギターを製作、日本製では満足しない米兵たちの人気を呼び、注文が殺到したという記事があります。
 また60年1月5日付けの記事には、市内山里にあった琉球国際短期大学で民俗学を学ぶ林助さんが紹介されています。
 ヒストリートⅡでは、4月2日から「てるりん展」を開催し、彼の手書きの脚本や手作りの道具などを展示します。戦後、沖縄の人々に元気を与えてきた「てるりん」が残した資料(発想)は、今後の沖縄を考える上でもヒントになるかもしれませんね。
広報おきなわ(№442)/2011年(平成23年)4月号
【写真キャプション】林助さんが製作した四味線。低音の音域を広げるために絃を4本にしてある。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「コザ暴動」に寄せる、百人百様の「原体験」」


 暗闇で炎を吹く車や焼け焦げた車の写真を目にして、初めて「コザ暴動(騒動)」を知り驚く人、懐かしそうに当時の様子を語り出す人…。
 昨年十二月からヒストリートⅡで開催している企画展「あれから四〇年 コザ一二・二〇」に、一五〇〇名余の方が訪れました。好評につき展示期間を今月まで延長します。
 これまで「コザ暴動」について聞き取り調査をした中で、強く感じたのは「百人百様」の「原体験」があることでした。
 ある人の「原体験」は沖縄戦で亡くなり会ったこともない姉の存在、つまり戦後ずっと娘(姉)を失った苦しみを抱き続けている母親の悲しい姿。ある人は中学生時代に窃盗を疑われ、有無を言わさず米軍に連行された屈辱的体験。また、ある人は宮森ジェット機墜落事故の時に「自分(パイロット)は助かり子ども達は死なせて。こいつらは敵だ」という激しい怒り。
 ひとりひとりの中に、それぞれに違う米軍に対する反感の原点があって、それが、あの夜、偶然、あの場所でスパークしました。車をひっくり返すという同じ行動をとっていても、心の中の原動力はそれぞれ違っていたのです
 コザ「暴動」とはなんだったのか?
 現場写真・当時の証言・新聞記事などを通して一緒に考えてみませんか。お待ちしています。
広報おきなわ(№441)/2011年(平成23年)3月号
【写真キャプション】「コザ暴動」の夜(照屋寛則氏撮影)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「コザ暴動」に関わった元MPからの寄贈資料」


 元米陸軍のMP(憲兵)であったブルース・リーバーさんから、昨年十二月十九日に腕章と黄ナンバーを寄贈して頂いた。
 腕章には黒地に「ARMED FORCES POLICE」と黄色の文字で書かれている。彼は四〇年前「コザ暴動(騒動)」に大きく関わった人である。一九七〇年十二月二〇日未明、彼は同僚とゲート通りをパトロールしている途中で、交通事故の現場に無線で呼び出されたという。いわゆる第一の事故だ。現場に駆けつけた彼は沖縄の人が憤慨しているのを表情で知ったようだ。その時に第二の事故がおこり、群衆の怒りは爆発する。
 彼らは群衆から石や空き瓶などを投げつけられた。そして、少尉の命令に従って空に向かって威嚇発砲をした。この時、数名のMPで発砲をしたため、轟音が響き渡ったという。しかし、この結果群衆に煽りをかけることになった。
 同じ現場にいた沖縄人の男性は、威嚇発砲を目の当たりにした。そして周りからは「チューヤユルサランドー」という声を何度も聞いたという。「これまで色々な事件があって、その積もり積もったものが爆発した。みんな冷静で黄ナンバーだけを選んで引っ繰り返していた。簡単な思いでやったわけではない」と。リーバーさんはその後、「軍隊は私のいる所ではない」と除隊した。資料はヒストリートⅡにて展示中。どこにあるのか探してみてくださいね。
広報おきなわ(№440)/2011年(平成23年)2月号
【写真キャプション】MPの腕章と黄ナンバー

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『あれから40年―コザ12・20―』、開催中」


 2011(平成23)年の幕開けです。新年明けましておめでとうございます。
 今月は、旧年12月18日より開催中の企画展「あれから40年―コザ12・20―」から、話題をお届けします。
 1970年、年末のコザ市で起きた反米騒動は(概要は先月号)、「シタイヒャー(いいぞ)!」「ユーシッタイ(ざまあみろ)!」などの声と共に民衆の圧倒的な支持を得ましたが、後にその余波は、市民の新たな苦悩を生み出す種になってしまいました。
 騒動翌日に発表されたランパート高等弁務官の声明では「暴動」という言葉が強調され、それら「全くの破壊行為」が毒ガス撤去や復帰交渉の妨げになるとして、騒動の責任を民衆に転嫁しようとした発言がなされました。さらに、一種の経済封鎖とも言えるオフ・リミッツや、急きょ発表された3000人規模の軍雇用員大量解雇など、米軍による報復措置が次々と市民を締め付けていったのです。
 しかしながら、四半世紀にわたる米軍政下で様々な不満を募らせ、騒動に加わった人たちの証言からは、後悔の念などは感じられませんでした。理性を無くした暴動でも単なるお祭り騒ぎでもなく、怒れるウチナーンチュの意思を米軍に対して直接示せた事に、喜びを感じている様子でした。
 あなたは、40年前に示されたこれらの意思を、今どのように受け止めますか。開催中の企画展「あれから40年―コザ12・20―」は、今月も引き続き開催しております。ぜひご来室下さい。
広報おきなわ(№439)/2011年(平成23年)1月号
【写真キャプション】「FOR SALE(大売り出し)!」民衆の皮肉。(照屋恒誠氏提供)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「あれから40年、「コザ暴動」」


 復帰前の激動期。毒ガス撤去運動や軍雇用員の大量解雇問題で揺れていた1970年12月のコザ。さまざまな矛盾をはらんだ「基地の街」の民衆が米軍への怒りを爆発させ、米軍車両を焼き払った「コザ暴動」から今月20日で満40周年を迎えます。
 コザ暴動(騒動)とは、米軍統治下の1970年12月20日未明、胡屋の軍道24号(現国道330号)で起きた米兵運転の車の人身事故を巡ってMPの処置に反発した群衆が、米軍関係車両を大量に焼きうちした事件のことで、米軍資料(『米国が見たコザ暴動』)によれば被害総数は82台にも及びました。
 背景には、戦後25年に及ぶ米軍の沖縄人抑圧や差別、人権軽視があり、民衆のうっ積した不満が一気に爆発したのでした。
 あれから40年。コザ暴動を総括しようと、市民有志が4月から毎月20日にヒストリートⅡで聞き取り調査を行っています。これまでに周辺住民や警察・検察、報道関係者等に証言していただき、事件の実態が明らかになりつつあります。
 またヒストリートⅡにおいて、今月20日を目途に(仮称)「コザ暴動(騒動)展」を開催し、コザ暴動や当時のコザ市の写真・映像資料を中心に展示する予定です。同事件を見つめなおし、当時の沖縄の置かれていた状況を考える場になれば幸いです。ぜひ、ご来室ください。
広報おきなわ(№438)/2010年(平成22年)12月号
【写真キャプション】一夜明けたコザ暴動の様子(ゲート通り)。撮影:比嘉秀雄

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・カデナ基地包囲大行動」


 人・ひと・ヒト。一九八七年六月二一日、土砂降りの中、二万五千人の人が集まった。嘉手納基地(周り一七・四㎞)を人間の輪で囲んだカデナ基地包囲大行動である。米軍基地の完全包囲は沖縄初、世界初であったという。
 あれから三年、一九九〇年八月五日にも嘉手納基地包囲行動が実施された。今回はその写真を紹介する。二度目となった基地包囲は、""家族そろってカデナへ行こう""を合い言葉に、県内外・国外から二万六千人が集結し、人間の輪が基地を完全に包囲した。一斉につないだ手が一つとなり、世界平和の実現と沖縄の実情を訴えた。空には、五百羽の鳩と二万個の風船が舞っていた。そして、包囲終了後の金網(フェンス)には、平和の願いの証となった赤・黄・緑のネッカチーフがしっかりと結ばれていた。
 これまで実施されたカデナ包囲行動は、二〇〇〇年と〇七年を合わせ都合四回、延べ約九万四千人に上った。願いは一つだった。
 撮影者の石川文洋氏は、一九六九年から沖縄を撮影するようになった。沖縄の現実と戦争の実態を見つめた写真を今も撮り続けている。その思いの一枚である。ちなみに、一九九〇年は、沖水が夏の甲子園で県初の準優勝を果たし、沖縄市では三代目の市長が誕生した。確実に歴史の流れは歩み続けている。
広報おきなわ(№437)/2010年(平成22年)11月号
【写真キャプション】嘉手納基地包囲抗議(1990年)。沖縄市知花側に集まった人・ひと

戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋氏・アフガニスタンの野外授業」


 今月紹介する写真はアフガニスタンの野外授業の様子です(ヒストリートⅡにて展示中)。
 一九七九年からアフガニスタンに侵攻していたソ連軍が、八九年に撤退したことで九二年にはソ連に支援された政権が崩壊。新政権下では多民族国家ゆえの各武装勢力による内戦が始まります。内戦が続く中、学校は兵舎と化し、机や椅子は燃料とされ、あるいは売り払われました。攻撃目標となった校舎は焼かれるなど、戦争は教育現場を徹底的に破壊し尽くしました。
 二〇〇一年一二月、タリバン政権が崩壊した後、各学校は授業を再開。左の写真は再開間もない〇二年三月に撮影されたものです。
 翻って六五年前、地上戦で焦土と化した沖縄はどうだったでしょうか。米軍上陸地点から比較的近い沖縄市(当時、美里村と越来村)では、終戦前の四五年六月に古謝小学校(美里村)、七月にコザ第一小学校(越来)、第二小学校(室川)、第三小学校(安慶田)が開校していますが、開校に関わった稲嶺盛康氏は「校舎も、机、腰掛、学用品など無く、畑を運動場に授業は木の下や青空の下で始める」(『沖縄市学校百年誌』)と回想しています。
 ヒストリートにはキャンプコザ内の青空教室でオルガンを囲む子ども達の写真がありますが、どちらの写真にも、繰り返してはいけない歴史と、逆境の中でも未来へ向かって生きる子ども達の力を伝えるメッセージが託されているようです。
広報おきなわ(№436)/2010年(平成22年)10月号
【写真キャプション】野外授業の様子ジャララバード

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『石川文洋展アフガニスタン・2002年』、開催中」


 二〇〇一年九月十一日、アメリカ同時多発テロ事件が起こり、ツインタワーに飛行機が激突する瞬間や崩壊する建物の映像が何度も放映されました。その事件後、在沖米軍基地は、即厳戒態勢がしかれ、ゲートが封鎖され、あるいはチェックが厳しくなり、その影響で市内の嘉手納基地第2ゲートにつながるゲート通り周辺は慢性的な渋滞がしばらく続きました。十月にはテロへの報復として米軍によるアフガニスタンへの武力行使がはじまりますが、何万キロも離れた国で起きた事件とはいえ、米軍基地をかかえる沖縄もテロの脅威にさらされるという現実を感じたことでしょう。あれから今月で九年目に突入しますが、未だ解決の道が開けないままです。
 さて、ヒストリート2では""石川文洋展アフガニスタン・2002年""を今月いっぱい開催しますが、この企画展はアフガニスタンの写真群(八〇葉)だけで構成された初めての展示となります。テロ事件のちょうど五ヵ月後、二月十一日から三五日かけて石川氏が取材で訪れたアフガニスタンの戦禍によって荒廃した自然や文化遺産などが無惨な姿で映っています。しかし、その瓦礫と化した街や国内外の難民キャンプ、学校、孤児院、病院、リハビリセンターなど、どれをとってもけっして十分とはいえない環境の中で、たくましく生きる人々の姿と子どもたちの屈託のない笑顔がそこにはあります。
ぜひ、展示室へ足をお運びください。
広報おきなわ(№435)/2010年(平成22年)9月号
【写真キャプション】「どうして大人は戦争をするのだろう」