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戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『てるりん展』、開催中」


 「コザ独立国」をご存じでしょうか。1990年「てるりん」こと照屋林助(1929年~2005年)を大統領に、「コザが地球の真ん中だ」という思いで建国された「遊び国」です。
 林助さんは、その建国精神を「コザの歴史に由来するもの」を語りました。戦後、米軍基地と共に歩んできたコザの街は、否応なしに流入してくる異文化を排除するのではなく、理解・吸収し、さらに自分たちの琉球文化を基層におく独自の文化へと変化させてきました。そのフロンティア精神と常に新しいものを創造していく精神にあふれた文化国家を作ろうというものでした。
 林助さんは、「独立ごっこをしながら、人間や国家が『独り立つこと』を考え、世の中をどうすべきかという、しっかりした見方を養う有効な一策」とも言っています。遊び(笑い)の中で物事の本質を問いかける林助さんらしい発想です。彼が創った歌詞や脚本を読むと、クスッと笑いながらもジーンと胸に迫るものがあります。
 今年は、沖縄の施政権が米軍から日本に移譲されて40年を迎えます。
 私たちは『独り立つこと』ができているのでしょうか。
 てるりん資料を見ながら、面白おかしく、そして真剣に考えてみましょう。
 ♪皆様よ、丁度時間となりました
  ワタブーショーは今日やこれまで♪
広報おきなわ(№454)/2012年(平成24年)4月号
【写真キャプション】コザ独立国大統領の帽子

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『戦世の子どもたち~コザ孤児院~』、開催中」


 沖縄戦の終結から今年で六七年。昭和二〇年三月、沖縄にも戦の波が押し寄せてきました。激しい艦砲射撃の後、四月一日に米軍は北谷~読谷の海岸より、無血上陸を果たし、三日までには沖縄市の泡瀬まで進攻しました。
 米軍は沖縄本島を二分し、本土進攻に向けての飛行場建設計画をたて、難民収容所を設置し住民を中北部へと移動させました。いち早く占領地域となった沖縄市の嘉間良には「コザキャンプ」が建設されました。焼け残った民家を利用し、本部事務所、配給所、区役所、警察署などが置かれ、養老院や孤児院もありました。
 六月には村長選挙が行われ、七月に三つの小学校が開校し、八月には孤児院内にも四番目の小学校が開校しています。当時の新聞には、四〇〇名余りの孤児が収容されていたとあり、その中で栄養失調や寂しさのために衰弱して亡くなっていく子どもたちも数多くいたようです。収容所や孤児院で亡くなった人々をキャンプ内に埋葬していましたが、その後、葬られた方々は沖縄市の納骨堂に移されています。
 今回、ヒストリートⅡでは三月七日~四月一日まで「戦世の子どもたち~コザ孤児院~」の企画展を開催いたします。多くの皆さまの来室をお待ちしております。また孤児院に関する情報もぜひお寄せ下さい。
広報おきなわ(№453)/2012年(平成24年)3月号
【写真キャプション】孤児院内の第四小学校で体操するこどもたち

戦後文化シアター 今月のヒストリート「コザ十字路」


 今月紹介する1950年代のコザ十字路の写真には、中央に設置された台の上でおまわりさんが、手信号で交通整理をし自動車の流れをさばいている様子がうかがえる。
 戦前、この一帯は田園地帯であったが、戦後、米軍によって道路が敷かれ、軍道13号線(現、国道329号)と24号線(現、国道330号)が交差し交通の要所となった。また、旧美里村とコザ市の境界をなす十字路一帯には50年頃から、十字路市場、本町通り(現、銀天街)、映画館、洋裁店、料亭、理容館などが林立し、市内はもちろんのこと、現在のうるま市あたりからも買い物客が集まる庶民の街として賑わいをみせていた。一方、米兵を相手とする店舗が照屋、吉原、城前に建ち並ぶようになったのもその頃であった。米兵たちは「フォー・コーナー」「オールド・コザ」と呼び、地元では照屋十字路、宮里十字路とも呼んでいた。
 やがて、コザ十字路の交通量が増え、信号機設置の要望が強くなり、軍道を維持管理している米軍との調整を経て市内初の信号機の着工・使用開始(58年2月・4月)となるが、「緊急の場合、演習のときなど大量の軍車両が通るときには信号灯の管理をまかせてくれ」(琉球新報58年2月18日)という条件付きで、信号機一つさえも米軍の許可なしには設置することができない時代であった。
 第一次毒ガス移送がようやく実現したのは、発覚から1年半後の1971年1月13日。その半年後、7月15日から9月9日にかけて第二次移送が行われました。
 現在、コザ十字路一帯は道路拡張に伴い整備が進められている。今後のまちづくりに期待したい。
広報おきなわ(№452)/2012年(平成24年)2月号
【写真キャプション】コザ十字路・1950年代

戦後文化シアター 今月のヒストリート「毒ガス移送経路の問題」


 明けましておめでとうございます。今月も、現在開催中の企画展「毒ガスが走った街 1971」から、話題をお届けします。
 1969年7月、知花弾薬庫内に貯蔵された毒ガスの存在が発覚して以来、前号で紹介したような早期撤去を要求する運動は、まさに県民ぐるみで盛んに行われてきましたが、その道のりは大変険しいものでした。特に移送経路にかかる地域の住民は、安全対策が不十分だとして「移送阻止」行動も辞さない構えでした。
 毒ガスの早期撤去を要求しながら移送阻止とは、一見矛盾しているようですが、これは毒ガスの恐ろしさをよく知り、生命の危険を感じた地域住民が「自らの命を守る」という根源的な要求からくる行動だったのです。
 第一次毒ガス移送がようやく実現したのは、発覚から1年半後の1971年1月13日。その半年後、7月15日から9月9日にかけて第二次移送が行われました。
 第二次移送までの半年間にも、移送経路の問題はさらに困難を極め、集落を迂回するために新たな道路まで建設されました。しかしその費用は、米軍によって秘密裏に持ち込まれた毒ガスを移送するのにも関わらず、日本政府が負担する事になりました。
 「毒ガス移送」は、単なる一つの事象ではなく、それにまつわる諸資料は、当時の米国・日本・沖縄の関係を語ってくれます。前年に起こった「コザ暴動」や翌年に控えていた「日本復帰」などと連続して考える事も重要だと思います。
 今年は、沖縄の日本復帰から、ちょうど40年目の節目に当たります。皆様も復帰直前の沖縄を、もう一度考えてみませんか。
※「毒ガスが走った街 1971」は、今月29日まで開催
広報おきなわ(№451)/2012年(平成24年)1月号
【写真キャプション】演説する中村元美里村長「命を守る校区民総決起大会(美里村北美小)」にて。1971.01.07、撮影:吉岡攻

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『毒ガスが走った街 1971』、開催中」


 毒ガス移送から40周年を記念し、先月19日からヒストリートⅡにおいて、企画展「毒ガスが走った街 1971」が開催されています(来年1月29日まで)。
 写真は1970年12月19日、美里中学校で開催された「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」の1コマ。毒ガス貯蔵が発覚してから1年半も経った同月5日に米軍は移送先(ジョンストン島)、続いて11日に移送経路等を示したレッド・ハット作戦を発表します。しかし、この計画は安全対策について具体的な説明がなく、また初回の撤去量もわずかだったため、県民は猛反発。毒ガスの全面撤去を求めて大会が開催されることになりました。
 当日、地元の美里村は住民を最大動員。会場には子どもをおぶった主婦の姿も見えました。移送路にあたる北美小学校区の父兄や学校職員は赤ハチマキをしめ「安全対策、移送路の変更」を訴えて抗議のプラカードや横断幕を掲げ、また同校・生徒会の「いたましいことがおこらないように」と書いたプラカードが目をひきました。
 大会では米軍の移送計画に強い不安と怒りを表明し、「毒ガス兵器の即時完全撤去」「一切の軍事基地の撤去」などを決議。
 翌71年、いよいよ毒ガス移送が始まります。
広報おきなわ(№450)/2011年(平成23年)12月号

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「毒ガス移送」から40年」


 「きょう毒ガス/補償費支払い」
 一九七一年十一月一日、琉球新報の見出しです。同日、沖縄タイムスには「毒ガス移送の新聞配達少年/兄弟ともに表彰」の記事で、毒ガス移送期間中、人々が避難して閑散とした集落を、せっせと新聞を配達した兄弟を取りあげています。
 知花弾薬庫内に「毒ガス」が貯蔵されていることが発覚したのは六九年七月。人道的にも国際法としても使用が禁止されている毒ガスの貯蔵に驚愕した屋良主席(当時)は高等弁務官に厳しく抗議し、また撤去を求める県民大会もひんぱんに行われました。しかし、移送先や移送ルートの選定など難題が多く、ジョンストン島への移送が完了したのは二年後(七一年九月)でした。
 弾薬庫から天願桟橋までの移送車が通る沿道付近の住民は万一に備え避難生活を余儀なくされ、冒頭の新聞見出しはその間の生活補償費をさしています。
 七〇年十一月に戦後初の国政参加を果たした七人の県選出国会議員たちも、移送や避難に伴う補償について、国会で政府の対応を質しています。
 地域住民を否応なく巻きこんだ「毒ガス移送」から四〇年。
 ヒストリートⅡでは、避難の様子などの写真をはじめ、関係資料を展示します。
 住民は何を考え、どう行動したのか、また(琉・日・米)政府の対応など様々な角度から見直し、米軍統治下にあった沖縄を検証したいと思います。
 「毒ガス移送」に関わる皆様の体験談などもお聞かせ下さい。ご来室をお待ちしております。
広報おきなわ(№449)/2011年(平成23年)11月号
【写真キャプション】避難先の教室で食事をとる人々1971年7月

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『沖縄市民が海を渡った』、開催中」


 第5回世界のウチナーンチュ大会が今月一二日から一六日にかけて開催されます。本大会は、移民・移住者数が全国二位と多く「移民県」として知られる沖縄県ならではです。
 戦前の沖縄では戦後恐慌を起因とした砂糖の価格暴落による食糧不足と貧困などを理由に移民が増えました。沖縄市からも明治三七(一九〇四)年、メキシコへの移民を始めとし、昭和一六(一九四一)年までに約三三〇〇人がハワイやペルーなどの国々へ移民しています。また、戦争で焦土と化した沖縄、終戦後の帰郷による人口増加、五〇年代の本格的な基地建設に伴う土地の強制接収から、移民・移住を選択した人々がいました。本市からも約四〇〇人がブラジルやアルゼンチン等へ渡っています。戦前・戦後ともに、海外へ渡る人々は新調した服を着て旅立ったといいます。新たな気持ちで、夢や希望を胸にした門出だったのでしょう。しかし、移民・移住先では、慣れない土地での文化の違い、生活の困窮や過酷な労働など厳しいものでした。そのような困難を乗り越え、第二の故郷を築きました。
 ヒストリートⅡでは、企画展「沖縄市民が海を渡った」を今月いっぱい開催します。移民・移住先の写真やパスポート、各種証明書などの資料、体験談を通して、海を越え、異国の地で歩んできた方々の足跡を辿ってみませんか。
広報おきなわ(№448)/2011年(平成23年)10月号
【写真キャプション】新調した服を着て移民地へと向かう人々。1960年、那覇港

戦後文化シアター 今月のヒストリート「戦後史でつながる沖縄市と奈良市」


 去る七月二三日~八月七日まで、奈良女子大学で「沖縄の戦後と女性のくらし」と題した企画展が開かれた。古都奈良にも存在した米兵相手の歓楽街を紹介しながら、沖縄市と奈良市の戦後史を見つめる機会としたのである。会場は、本市の「ヒストリート」が提供した生活道具や写真資料、報告書などが所狭しと並べられ、多くの観客を魅了した。
 奈良市の歓楽街は、一九五二年、朝鮮戦争の帰休兵のために設置された休養・回復施設「RRセンター」に原因する。同センターの周辺にはバーやキャバレーが出現し、そこで働く三〇〇〇名にも及ぶ女性、客引き、帰休兵で溢れかえったという。米兵の落とす金で活気を呈した街も翌年には閉鎖され、すでに人々の記憶の中の風景として残ったのみで、一帯は今、当時の面影はまったくない。
 沖縄で本格的な基地建設が始まった一九五〇年代、本市には八重島、センター通り、ゲート通り、照屋などに米軍・軍属相手の歓楽街が次々と形成されていった。六〇年代になると、基地のまちは、戦場という極限状態から、大金を手にした多くのベトナム帰休兵らで賑わった。が、やがてオフリミッツ、Aサイン制度、円高、大型店舗の郊外進出などに翻弄され次第に衰退していく。
 嘉手納基地の門前町として個性的な歴史・文化を蓄積した沖縄市。奈良とどこが似て、どこがどう違うのか。この夏、大きなテーマ をまた一ついただきました。
広報おきなわ(№447)/2011年(平成23年)9月号
【写真キャプション】ベトナム帰休兵1969年

戦後文化シアター 今月のヒストリート「エイサー」


 沖縄の夏の風物詩エイサー。太鼓の音を聞くと胸躍るという方も大勢いるのではないでしょうか。
 戦前も各集落でエイサーは行われていましたが、沖縄戦により中断しました。
 戦後、早い地域では一九四〇年代後半からエイサーが復活。太鼓が足りないのでジェリカン(水缶)を叩きながら旧盆の集落を練り歩きました。娯楽の少ない時代、演じる側も見る側も楽しみの一つでした。
 一九五六(昭和三一)年八月二六日、コザ小学校で第一回全島エイサーコンクールが行われました。朝早く全島から見物客がつめかけ、三万人もの観衆の中、九団体がエイサーを披露しました。
 同月はプライス勧告に反対した報復として、中部地区に無期限のオフリミッツが発令されており、コザ市のみ一週間程で解除されますが、七月にコザ村からコザ市に昇格したばかりの市にとって、このコンクールはよどんだ空気を一掃し、街を盛り上げるものとなりました。
 地域の活性化を目的にしたコンクールでしたが、翌年にコザ小学校の隣に慰霊塔が建立されると、慰霊祭を兼ねた奉納エイサーコンクールとして開催されます。
 第二三回からは「エイサーまつり」へと移行。沖縄市は四年前に「エイサーのまち宣言」を行い、今年6月にはモニュメントも建立し、エイサー文化の継承・発展と共にエイサーのメッカとして地域活性化に向けて様々な 取り組みを進めています。
 懐かしのポスターを展示中。必見です!
広報おきなわ(№446)/2011年(平成23年)8月号
【写真キャプション】第1回全島エイサーコンクール

戦後文化シアター 今月のヒストリート「コーラ」


 梅雨の気配はすっかり遠のき、夏到来です。連日の猛暑続きで、つい冷たい飲み物に手が伸びてしまいますね。今月の話題は、清涼飲料の代表格「コーラ」です。
 コーラはいつ、沖縄に持ち込まれたのでしょうか。1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島へ上陸した米軍は、占領直後から米本国より軍の供給物資として「コカ・コーラ」を取り寄せました。1951(昭和26)年9月5日(沖縄コカ・コーラボトリング株式会社 社史より)、沖縄での民間販売が公式に認められるまで、コーラとは米軍人・軍属の飲み物だったのです。
 一方その頃の沖縄住民は、戦争の痛手を負ったことで生活道具を無くし、困窮にあえいでいました。しかし、そのような中で見つけたのが「コーラ瓶」。米軍が飲み干した後のゴミでした。何かに使えそうだと知恵をしぼり、様々な生活道具を生み出していったのです。
 その代表的なものが、ヒストリートに展示されています。左の写真「コーラびんのコップ」です。コカ・コーラのロゴ下部より上下に切り離して、下半分をコップに、上半分は風鈴や漏斗として代用していました。
 現在ではすっかりお馴染みの「飲み物」になったコーラも、市民におけるその歴史は、空き瓶利用から始まる…と言えるのではないでしょうか。
 しかし、どのようにしてガラス瓶をこんなに綺麗に切り離すことが出来たのか、不思議だと思いませんか?ぜひヒストリートにお越しいただき、スタッフにお尋ねください。
広報おきなわ(№445)/2011年(平成23年)7月号
【写真キャプション】コーラびんのコップ