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戦後文化シアター 今月のヒストリート「日本復帰前後、変わった?変わらない?」


 今月は、沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートII」にて展示中の、石川文洋氏の写真を紹介いたします。
 左の2点の写真、一見してどちらの方が古いかお判りでしょうか?1点は日本復帰前の1971(昭和46)年に撮影されたもの、もう1点は復帰から25年目の1997(平成9)年に撮影されたものです。
 沖縄返還協定の内容に反対し、基地のない「真の復帰」を求めた71年の大ゼネスト集会と、使用期限の切れた軍用地への立ち入りを要求して反戦地主たちが行なった97年のデモ。復帰から25年経っても様変わりしない沖縄の一面が、石川氏のカメラによって切り取られています。
 復帰41年目を迎えた現在も、これらの写真は全く色あせる事はありません。97年当時、「(復帰から)25年後のこの日に、同じ様な集会を取材するとは想像もしなかった」と琉球新報に語った石川氏は、復帰40年目を迎えた去年も沖縄で取材を行ないました。この節目の年、石川氏だけでなく沖縄県民は何を感じたでしょう。本市では、沖縄全島エイサーまつり(本祭)の開催日に、大規模な県民大会が行なわれた事が記憶に新しい方もいらっしゃると思います。
 現在ヒストリートIIには、復帰前後の写真が展示されています。しかしそこに写っているのは、果たして「過去」か、または「現在」なのか、それとも「未来」の沖縄の姿を示唆しているのか、ぜひご覧いただき、感じてみてはいかがでしょうか。
広報おきなわ(№464)/2013年(平成25年)2月号
【写真キャプション】写真上:11.10ゼネスト与儀公園(1971.11.10)/写真下:嘉手納基地前(1997.05.15)/撮影:石川文洋

戦後文化シアター 今月のヒストリート「戦中・戦後の道具」


 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、復帰40年という節目に、沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートⅡ」において、特別企画展を3回にわたり開催し、様々な視点から「復帰の顔」を紹介しました。今月9日からは、石川文洋氏の沖縄関係写真と村瀬春樹、ゆみこ・ながい・むらせ両氏からご提供いただいた戦中・戦後の道具を展示しています。
 今回紹介する一点は、一見すると蓋つきの入れ物のようですが、実は正月用の鏡餅として、瀬戸市で1938(昭和13)~45年にかけて制作され、全国で販売されたものです。平時には本物の餅をお供えしますが、戦時となると陶製の鏡餅が代用品として使われたようです。正月毎に供えることができる、まさに、戦時下の食糧難や「ぜいたくは敵だ」と叫ばれた時代の産物でした。
 さて、戦後の沖縄でも、モノ不足の時代に飛行機の残骸からジュラルミン製のナベやヤカンなどの生活用具が作り出され、多くの代用品、転用品がうまれました。ある日、ヒストリートへ来室された方が、「今川焼きを作ったので食べてください」と星形のマークが堅焼きされた今川焼きを持ってきてくれました。長年大事にしているジュラルミン製の今川焼き型で焼いたのだという。
 今年も市民の皆様の来室をお待ちしております。
広報おきなわ(№463)/2013年(平成25年)1月号
【写真キャプション】正月用の鏡餅、ジュラルミン製今川焼き型

戦後文化シアター 今月のヒストリート「復帰40周年特別企画展、会期あとわずか」


 5月から続く「復帰40年特別企画展」もいよいよ残り一カ月です。
 1950年代後半、コザ市は基地経済の恩恵を受け繁栄していた反面、消費都市の形態をたどっており、堅実な路線への転換が望まれていました。そのために産業振興と各種企業の育成強化を推進する機運が高まっていました。さらに市は「観光文化都市建設」を目指しており、商業・文化の高揚を図るとともに我がまちの姿を広く内外に紹介しようと、市・市商工会・市婦人会の共催による展示即売会を開催しました。
 写真は「コザ市展示即売会場」入口の様子で、左奥の建物が会場となった琉球生命ビル(現日本生命育成センター)。
 会場には商工品、農産品、手工芸品などが出品され、市民だけではなく、那覇や石川、読谷などからも多くの人々が押し寄せたようです。質と技術面に力を入れた出品物は参観者の目をひき、開催期間中の1958年2月1~3日に約2万人の客が訪れ、金額にして4万6980B円(日本円で14万円余)の売り上げを記録しました。
 企画展では左の写真だけではなく、現在の様子を撮った写真も展示しています。その移り変わりを見比べてみては如何ですか?
広報おきなわ(№462)/2012年(平成24年)12月号
【写真キャプション】場所は現在のゴヤケーキ付近。外国人も呼び込もうと横文字の横断幕も掲げられた。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市一番街」


 ♪見る街 買う街 憩いの街♪
 この歌に聞き覚えがありますか?「沖縄市一番街」のCMソングとして一時期、テレビでも流れていました。
 一番街商店街振興組合によると、一九五五(昭和三〇)年に三五名の小売業者が「ゴヤ中央市場」を設立。その後、組合員数も七五名に増加し、「ゴヤ中央商店街」と改称されました。
 五七年十二月の新聞に、保健衛生に重きをおき、一間半の通路や、雨よけも設備された環境衛生のよい市場としてリニューアルされたことが報告されています。
 七四年の沖縄市誕生と同時に「沖縄市一番街」となり、翌七五年には、県内で初のアーケードを設置し、中部圏の中心的な商店街へと発展しました。店舗の二階までテナントが入り、買い物客であふれていた賑やかな光景を覚えている方も多いと思います。
 郊外型大型店舗の進出により、地域の商店街は急速に寂しくなりましたが、今年三月に老朽化したアーケードを一新、明るくおしゃれな一番街が再生しました。
 組合長の話では、現在三五店舗が営業し、福祉関係や理髪業の店が増えてきたとのことです。地理的な条件や雨天でもアーケードがある利点を活かし、地域の人々の♪見る街 買う街 憩いの街♪が復活することを期待したいですね。
 ヒストリートIIでは復帰特別企画として、商店街や市民の生活の変遷を展示しています。ぜひ、ご覧ください。
広報おきなわ(№461)/2012年(平成24年)11月号
【写真キャプション】各青年団の旗頭の図柄が楽しい商店街内(2012年10月撮影)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「復帰記念事業「若夏国体」」


 現在、ヒストリートIIでは復帰四十周年企画展を開催しています。
 一九七二(昭和四七)年五月十五日の本土復帰に伴い、同年十一月には復帰記念植樹祭が、その翌年の一九七三年には若夏国体(沖縄特別国民体育大会)、三年後の一九七五年には海洋博(沖縄国際海洋博覧会)等、沖縄では様々な復帰記念事業が行われました。
 その中から今回は「若夏国体」を紹介します。
 沖縄が本土に復帰した翌年の一九七三(昭和四八)年五月三~六日にかけて、復帰記念事業の一環として「若夏国体」と名付けられた沖縄特別国民体育大会が行われました。若夏国体は通常の国体とは違い、全国の予選は行わず、各都道府県に種目と人数を割り振って選考したミニ国体であり、「強く・明るく・新しく」をテーマに十市一町で開催されました。開催に伴い、沖縄県を挙げて体育施設の充実や選手の強化がはかられ、コザ市(現、沖縄市)では、会場として市営体育館・市営球場・陸上競技場が整備され、また、国道58号からコザ市総合運動場(現、沖縄市コザ運動公園)を結ぶ国体道路(現、やまなか通り)も開通しました。
 左の写真は、コザ市が国体開会前日に行った若夏国体市民大パレード(山里)の様子です。市民一〇〇〇人が参加したこのパレード、そこには沖縄にとっては初めてとなる全国規模の体育大会への成功と期待、そして、屋良朝苗知事が開会式で「沖縄県の発展と平和を願って開催される」と述べたように、沖縄の未来への強い思いが込められているのではないでしょうか。
広報おきなわ(№460)/2012年(平成24年)10月号
【写真キャプション】若夏国体シンボルマーク(左)と、市民大パレード(山里)の様子(右)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「730(ナナサンマル)」


 「ヒストリートII」では、復帰四〇年の企画展を開催中です。写真やモノ資料を中心に復帰後の沖縄(市)を展示。その中から、今回は「730(ナナサンマル)」を紹介します。
 復帰に伴い県内一斉に交通方法が変更されたのは、一九七八(昭和五三)年七月三〇日でした。米軍統治下の二七年間と復帰後の六年を含め三三年間に及んだ車の「右側通行」がこの日から「左側通行」に変わったのです。交通方法の変更は、残された復帰処理の最大の課題といわれ、「一国一交通方法」の国際交通条約の遵守と交通上の危険防止を目的に閣議決定され、以後「730作戦」が展開されていきます。
 しかし、交通方法の変更は日常生活や経済活動に及ぼす影響が大きく、実施が近づくにつれ県民の不安・動揺は増大し、変更反対や延期を求める強い声もありました。
 不安を残しながらも作業は、二九日の午後一〇時のサイレンと共に開始、三〇日の午前六時を期して、沖縄では全国同様の新交通ルールがスタートしました。ゴヤ十字路の交差点では、交通世変わりを一目見ようと黒山の人だかりができ、道路は変更に戸惑うドライバーたちで渋滞。各地でも事故や交通マヒが続発したようです。
 復帰後の沖縄を大きく揺るがせた「730」は、県民の暮らしを大きく変えた出来事であり、戦後沖縄の歴史の一コマです。
広報おきなわ(№459)/2012年(平成24年)9月号
【写真キャプション】車は左を示す「730」のロゴ。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄産たばこ」


 「おとひめ」「うらしま」「ピンク」「サンライト」「スカイライン」「バイオレット」の言葉で浮かんでくるモノは?
 正解は沖縄産たばこの銘柄です。
 戦後の産業振興の波に乗って一九五一(昭和二六)年、沖縄で第一号のたばこ会社、琉球煙草会社が設立。五年後にはオリエンタル煙草株式会社が、五七年には沖縄煙草産業株式会社が設立されました。
 沖縄のたばこ産業は、外国企業の参入や本土からの輸入品に対抗するため、地元たばこ産業の保護・育成に支えられながら積極的な商品開発に取り組んでいきました。
 特に琉球煙草の「ピンク」という商品は原料も加工も島産両切たばこ第一号で外国産のような甘い香りが特徴で、島内トップの銘柄となりました。たばこ産業は戦後の沖縄の財政に重要な役割を果たします。
 その後、ベトナム特需に伴って闇アメリカたばこが盛況を極めると、島産たばこの売れ行きにも影響を与えたようです。
 本土復帰に伴い、自主廃業という方向で保証金や従業員の再就職など折り合いがつき、専売公社へと移行しました。当時、上位四銘柄のバイオレット、うるま、ハイトーン、ロン(現在無し)はそのまま取り扱う事になりました。
 ヒストリートⅡでは復帰四〇年の企画展開催中です。当時斬新なパッケージであった「ピンク」も展示中!ぜひご覧下さい。
広報おきなわ(№458)/2012年(平成24年)8月号
【写真キャプション】復帰記念たばこ「MAX TOKYO」。新生沖縄県の文字が見える。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「日本復帰の年のカレンダー」


 梅雨が明け、本格的な夏到来です。そろそろ夏休みの計画を立てようと、カレンダーに向き合っている人もいらっしゃるのでは?
 今月は、ヒストリートIIにおいて開催中の「アメリカ世からヤマトゥヌ世へ① 復帰の顔」より、『1972年のカレンダー(高等弁務官府発行)』を紹介いたします。
 日本復帰の年に合わせて発行・配布された左のカレンダーは、上下開きの冊子版、表紙にはお正月らしく門松が描かれています。しかしこの門松、どこか違和感を覚えませんか?日米の国旗があしらわれていますね。実は冊子の中身も同様、日本・沖縄・アメリカが共在した内容となっているのです。
 例えば昭和(和暦)の表記は一切ありませんが、沖縄の旧暦(一日と十五日)は毎月しっかり書かれています。また、天皇誕生日を含む日本の祝祭日と同時に、「慰霊の日」やお盆など、沖縄の祝祭日も記されています。さらに興味深いのは、7月4日「独立記念日」や「復員軍人の日」など、アメリカの祝祭日まで赤く塗られ、公休日として表記されています。
 本資料からは、日・沖・米、三つの暦の上で暮らすと同時に、三つの価値観や思惑のはざまで生きてきた沖縄の人々の姿が垣間見られるのではないでしょうか。カレンダーには各月、親米意識の向上をあおるスローガンも示され、発行元の意図がよく伝わってきます。
 しかし残念ながら、本資料に関連する情報は少なく、「毎年配布されていた」と記憶する人もいますが、いつどのような形で配布されたか、以前の年のカレンダーはあったのか等、分からない点があります。資料について何かご存じの方は、是非「ヒストリート」まで情報をお寄せ下さい。お待ちしております!
広報おきなわ(№457)/2012年(平成24年)7月号
【写真キャプション】カレンダーの表紙(上)と、7月のページ(下)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「スマイルマーク(ニコニコマーク)」


 沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートⅡ」において、復帰40年特別企画展「アメリカ世からヤマトゥヌ世へ①復帰の顔」(8月12日まで)を開催しています。石川文洋氏が撮影した復帰前と復帰当日の写真(53点)、また、復帰記念メダル、カレンダー、沖縄ふろしき、琉球切手など復帰に関するモノや米軍統治下時代に使用されたモノ(約500点)を展示し、諸資料から様々な「復帰の顔」を紹介しています。
 40年前の復帰の日、県内の各小学校では、日本政府からの贈り物が配付され、その一つが当時、社会現象を起こす程の大ヒット商品となったスマイルマーク(ニコニコマーク、スマイリーなどとも呼ばれる)の筆箱や下敷きなどでした。サンスター文具株式会社の[ラブピース]シリーズで発売されたこともあって、ベトナム反戦運動のシンボルとして使用されたピースマークと混同されてしまうこともあったようです。
 さて、このスマイリー・フェイスをデザインしたのは、米国のハーベイ・ボール氏で、なんと彼は「沖縄戦」を経験し、同郷の仲間十数人が戦死するなか、彼一人だけが生き残ったことで、その後、他人に奉仕をすることが自分の生き方だと考え、ボランティア人生を歩んだとのことです。
 沖縄の将来を担う子どもたちに手渡された贈り物には、「沖縄戦」「ベトナム戦争」「復帰」のメッセージが秘められていたのでしょうか・・・
広報おきなわ(№456)/2012年(平成24年)6月号
【写真キャプション】40年ぶりにお目見えのなつかしの筆箱

戦後文化シアター 今月のヒストリート「特別企画展『アメリカ世からヤマトゥヌ世へ―復帰の顔①』、開催中」


今月15日より、ヒストリートⅡで復帰40年特別企画展「アメリカ世からヤマトゥヌ世へ」の第1弾を開催。報道写真家・石川文洋氏の復帰関係写真を中心に展開し、20日の「戦後史を語る会」ではシンガーソングライターの佐渡山豊さんをお招きし、復帰について語っていただく予定です。
 さて、復帰で庶民に最大の影響を与えたのは通貨交換でした。1972年5月2日、日本円で540億円分が東京から沖縄に陸揚げされた後、現金は沖縄各地の通貨交換所へと移送(本市には15カ所)。5月15日の復帰と同時に沖縄は一斉にドルから円へと切り替えられましたが、通貨交換の期間はこの2つの通貨が流通し、市場や商店では店主と客が金銭のやりとりで、まごつく様子が多く見られました。
 通貨交換は20日で終わり沖縄は円経済圏へと組み込まれましたが、「基地の街」コザでは米兵相手のバー、土産店などの業者が多く、市内のセンター通りやゲート通りでは20日以降も依然として円とドルの2本立て流通が続き、市内の各銀行窓口にはドルと円の交換者が絶えませんでした。
 しかし、復帰後の円高ドル安などの影響で、以前は賑やかさを見せていたコザの歓楽街は米兵の客足がにぶり、売り上げは激減。復帰後も外国人相手の商売を続けていた「沖縄Aサイン連合会」は翌年解散を余儀なくされ、85年にはセンター通りも邦人を相手にした「中央パークアベニュー」へと生まれ変わりました。
広報おきなわ(№455)/2012年(平成24年)5月号
【写真キャプション】ドル生活に慣れた人々は円に替わって、売る方も買う方も混乱した。