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戦後文化シアター 今月のヒストリート「孤児院から引き取られた子ども達」


 「ヒストリートⅡ」では、好評につき「戦世(イクサユー)の子どもたち~コザ収容所の孤児院展」を開期延長し展示しております。
 1945年(昭和20)7月中旬、約800人に達したコザ孤児院の子ども達でしたが、収容された中には、病気やケガで命を落とす子ども達も大勢いました。その一方で多くは、家族や親類、または里親となる家族のもとに引き取られ、翌年8月頃には63人まで減少したようです。
 1953年の琉球政府文教局の調査によると、沖縄群島内に、両親ともにいない小中学生は約4,050名を数えました。そして、その多くが戦争孤児だったと言われています。1950年代の新聞に目を向けると、孤児院から引き取られた子ども達の、その後の人生を窺(うかが)い知ることができます。離島の家族に引き取られ、我が子同然に育てられた後に、終戦から5年後、実の母親と再会した子ども。また、親戚に引き取られても、満足に学校に行かせてもらえなかった子どももいたようです。
 コザ孤児院は1949年、沖縄厚生園へ統合され閉院しますが、収容された子ども達は様々な境遇のもと、長い「戦後」の人生を歩んでいるのです。
 これまで、殆ど語られてこなかった、孤児達の戦争と戦後の体験。沖縄市は彼らの声に耳を傾け、彼らの歩んだ歴史を記録していきたいと思います。
広報おきなわ(№474)/2013年(平成25年)12月号
【写真キャプション】コザ孤児院慰霊祭(2013年11月4日)/先生と68年ぶりの再会

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『戦世(イクサユー)の子どもたち~コザ収容所の孤児院展』、開催中」


 沖縄戦のはじまりとともに、米軍によって設けられた民間人収容所「キャンプ・コザ」。現在の嘉間良一帯に存在したこの収容所には、戦争で親と離れ離れになった「戦争孤児」を集めた孤児院がありました。沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートⅡ」では、10月16日から12月8日までの日程で「戦世(イクサユー)の子どもたち~コザ収容所の孤児院展」を開催しています。
 孤児院の運営や食糧、燃料の用意は米軍によって行われましたが、子どもたちの面倒を見たのは収容所にいた沖縄の人びとでした。当時を知る方々の話によると、戦場で保護された子どもたちが毎日のように連れてこられ、孤児院となった屋敷はすぐにいっぱいになったようです。収容所の女性たちは子どもたちの食事の用意をし、南部の戦闘を生き延びた女学生は子どもたちに「青空教室」で簡単な勉強を教えました。
 戦争が落ち着くにつれ、訪ねてきた家族や親戚との再会を果たした子どもたちが孤児院を去っていく一方、家族との再会を果たせぬまま亡くなる子も少なくなかったようです。
 今年も11月4日(月)午後1時30分より、倉敷にある沖縄市納骨堂にて慰霊祭を予定しております。子どもたちの過ごした孤児院の様子を通して、戦争とは何かをあらためて考える機会となればと思います。
広報おきなわ(№473)/2013年(平成25年)11月号
【写真キャプション】コザ収容所の子どもたち(1945年8月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「コザ孤児院」


 去った8月からはじまったヒストリート企画展「沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ」に引き続き、今月16日から「戦世(イクサユー)の子どもたち―コザ孤児院」を開催します。
 沖縄戦で親や家族を失った子どもたちを収容した「コザ孤児院」は米軍によって嘉間良を中心に設置された難民収容所のコザキャンプ内にあった施設の一つでした。
 コザ孤児院に関する資料を見ると、設置を決定したのは1945(昭和20)年5月19日で、戦禍を免れた2軒の家があてがわれ、その周辺に運動場・遊び場、テントなどの施設が整備されていったようです。当初、200名規模の定員を予定していましたが、7月下旬には約800人を数え、当時、県内におかれた10ヶ所の孤児院の中で最大規模の収容であったようです。
 2010(平成22)年6月、「コザ孤児院慰霊祭」を行いましたが、これを機に、今は70代、80代になった孤児たちが今まで封印していた過去の記憶を、少しずつ語りはじめています。戦争を体験し、孤独と向き合い、幾多の困難を乗り越え、戦後を生き抜いてきた彼らの歩みに真摯(しんし)に向き合い、一つひとつ丁寧に記録しなければと、痛感させられます。
 もう一度、戦争、平和についてともに考えてみませんか。ぜひ、足をお運びください。
広報おきなわ(№472)/2013年(平成25年)10月号
【写真キャプション】目隠し鬼ごっこをするコザ孤児院の子どもたち(1945年8月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ』、開催中」


 米軍は沖縄戦中、本島北部を中心に12カ所余の収容地区を設置し、住民の保護に努めま した。収容地区のひとつ、「キャンプコザ」は越来村(現、沖縄市)嘉間良を中心として越来・室川・安慶田などにまたがって形成されました。落ち着きを取りもどした人々は米軍から物資の配給を受け、軍作業に従事し、収容所の生活を中心にしながらも「戦後生活」へと動き始めていきます。
 嘉間良での配給物資ですが、米・豆・ミート・缶詰などといった食糧だけでなく、毛布・洋服・蚊帳・靴・寝台など日用の品も含めて配給品の種類は実に豊富で、本部配給所では食糧が途切れることがなかったそうです。そして、ほぼ2日に1度の割合で物資が人々の手に渡っていました。
 戦争で家屋や仕事を失い、明日をも知れない沖縄の人々にとって、たとえ不足がちであっても米軍からの配給は、まさに命綱であったことだろうと思います。
 人々の命をつないだ物資がどれだけの頻度で配給されていたのか。企画展「沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ」では、物資の配給頻度表も展示されています。ぜひ、ご覧になって下さい。
広報おきなわ(№471)/2013年(平成25年)9月号
【写真キャプション】食糧配給所の職員一同/住民は、米軍将兵とともに配給所の運営にあたっていました。1946年、嘉間良

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市の沖縄戦の特徴とは」


 「ヒストリートⅡ」では、「沖縄市民平和の日」条例制定から20周年の節目に、「沖縄市の沖縄戦、そして戦後へ」と題し企画展を開催中。写真・年表、図表、新聞記事や生活道具等を展示し、沖縄市の特徴を紹介している。いくつかその具体例を挙げよう。
 1945年4月1日、本島西海岸に上陸した米軍は、翌2日ないし3日には泡瀬など東海岸に達し、以後数ヶ月にわたる沖縄戦の幕が切って落とされた。上陸地に近かった本市では、4月の犠牲者の約8割が1日から5日の間に集中していること、6月7日には嘉間良収容所で村長・助役選挙が行われ、7月にはコザ第一小学校(現、越来小)など3初等学校が相次いで開校するなどいち早く戦後への歩みを始め、9月7日には字森根で沖縄戦の降伏調印式が行われたなど、本市の沖縄戦の特徴を紹介している。
 戦後68年、沖縄戦の体験者も少なくなりつつある今、展示を通して、それぞれの「沖縄戦と平和」について考えてみませんか。
広報おきなわ(№470)/2013年(平成25年)8月号
【写真キャプション】展示中の国民服

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『嘉手苅林昌の世界』、開催中」


 「民謡の神様」と称された嘉手苅林昌さんの企画展「嘉手苅林昌の世界」を、去る6月7日からヒストリートⅡで開催中。
 写真、カセット、CD、レコード、そして彼を知る方々の証言などを通して、戦後の沖縄の民謡界を牽引してきた嘉手苅さんを紹介しているが、その展示品の数あるレコードの中でもひときわ目を引くのが、「松(まちゃー)やっちー」。嘉手苅さん本人がタオルで頬被りをし、農作業をしているような様相で笑顔が印象的なジャケットだ。その曲の作詞は「ちんぬくじゅうしい」や「ゆうなの花」でよく知られている普久原恒勇さんの弟、故・朝比呂志(あさひろし)さんである。その歌詞には〝安慶田(あぎだ)ぬ前ぬ田ぶく〟、〝犬(いん)ぬ目(み)ぬヤードゥイ小 (ぐわー)〟など本市の地名が出てくることもあって、とくに市民にとっては親しみがもてる1曲であろう。
 さて、数年前にある方から1950年代の室川のことを聞かせていただいた。当時はテレビもなく、夜は車の往来もほとんどないので、各家は窓を開け、夜風にあたって夜を過ごしていた。すると、どこからともなく聞こえてくる三線の音色・・・ それは当時、近所に住んでいた嘉手苅さんの弾く三線だったという。戦後の復興は進んでいたが、戦争で受けた 傷がまだ癒えないこころにその音が染みいるようで、慰められたとのことだ。
 戦後、沖縄の人々に愛され、生きる支えとなった「民謡」はこれからも世代を越えて受け継がれていくであろう。企画展は7月28日までとなっています。市民の皆様の来室をお待ちしています。
広報おきなわ(№469)/2013年(平成25年)7月号
【写真キャプション】「松やっちー」EP盤レコードジャケット

戦後文化シアター 今月のヒストリート「風狂の歌人、嘉手苅林昌」


 激しく揺れた戦後沖縄。激動の時代に翻弄される人々の心を慰めたものに、郷土のうた「民謡」がありました。今月は本市出身で県を代表する民謡歌手、そして「風狂の歌人」としても知られる故・嘉手苅林昌さんを紹介いたします。
 1920(大正9)年、越来村(現・沖縄市)仲原に生まれた嘉手苅さんは、1932年を芸能生活のはじめとして、特に戦後、沖縄民謡の復興に尽力した一人として活躍しました。
 三線1本抱えて世界で歌い歩き、飄々として自由奔放。まさしく「風狂の」といったエピソードに事欠かない嘉手苅さんですが、独特の節回しで、庶民の心をしみじみと歌う声に「民謡の神様」という代名詞も付きました。
 県外へ向けてはばたく嘉手苅さんの様子は、ちょうど40年前、日本復帰の翌年(1973年)頃から見られます。同年5月に東京公演を行ったほか、6月には同じく東京で『あれから1年、沖縄フォーク大集会』という催しに出演しています。これは沖縄のフォーク歌手、佐渡山豊さんを中心として、日本復帰一周年を迎えてなお残る沖縄の危機、虚脱、焦燥を訴えるものでした。
 このような場で、ただ飄々とそこに在り、素朴ないでたちで庶民のうたを歌う嘉手苅さん。聴衆はその姿から、柔軟だが不動の「沖縄」を強く感じたのではないでしょうか。
 ヒストリートⅡでは、今月より「嘉手苅林昌展(仮称)」を開催いたします。風狂の歌人・嘉手苅林昌さんの活躍を通して、彼が駆け抜けた時代を考えてみたいと思います。
 異文化あふれる本市において、揺るがなかった沖縄文化「民謡」の強さに、今後の沖縄市を考えるヒントがあると思ったからです。
広報おきなわ(№468)/2013年(平成25年)6月号
【写真キャプション】琉球フェスティバルにてステージに立つ嘉手苅林昌さんと息子の林次さん(昭和45年ごろ)撮影:國吉 和夫

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『石川文洋写真/沖縄からベトナムへ』、開催中」


 ヒストリートⅡで、4月から今月にかけて企画展「石川文洋写真/沖縄からベトナムへ」を開催しています。今回は報道写真家の石川氏から提供いただいた写真の中から、ベトナム戦争中の沖縄とベトナムの写真59点を展示。在沖米軍基地が国外での戦争にどう関わっていたのかを、改めて考えたいと思います。
 戦争が始まると、沖縄駐留の第3海兵師団や陸軍空挺旅団などが相次いでベトナムへ移動。そして嘉手納基地から発進したB52戦略爆撃機がベトナムを爆撃するなど、沖縄の米軍基地はベトナム戦争のためにフル回転し始めます。
 写真の那覇軍港は、後方支援基地として54万9500人(米軍最大兵力)の軍需物資をベトナムへ送り続けたほか、ベトナムで破壊されたり、現地で修理不能な軍用車両が同港に運び込まれ、牧港補給地区で修理された後、再びベトナムへ転送しました。
 このように、ベトナム戦争において在沖米軍基地は作戦・発進、兵站補給、訓練、輸送中継、通信などに諸機能を発揮。米軍は朝鮮戦争に続いて、ベトナム戦争でも沖縄基地の有する戦略的・戦術的価値の重要さを強調したのでした。
 現在でもその論理によって、沖縄は過重な基地負担が続いています。
広報おきなわ(№467)/2013年(平成25年)5月号
【写真キャプション】那覇軍港に運び込まれた損傷した戦車群。1969年

戦後文化シアター 今月のヒストリート「日本国旗」


 春四月。
 新生活のスタートを切った皆様も多いことでしょう。
 各学校の入学式には校旗と共に国旗が掲げられていたと思います。
 写真は、戦時中に使用された国旗ケースです。
 右の紙製ケースは、ふたの部分に国旗を掲揚する日として「四月三日神武天皇祭」「四月廿九日天長節」などが記され、左のケースは砲弾を模していて、これらが製作された時代背景をそのまま表しています。
 国のマークである国旗は、その時代時代で扱い方が変わっていきます。
 日本復帰前の沖縄では、米国によって日本国旗の掲揚が禁じられていた時期がありますが、一九五二年四月二八日の対日講和条約発効以後、政治的意味をもたない場合に限り、私的な場所での掲揚が認められ、六一年には祝祭日に公共施設で掲揚することも認められました。掲揚に関する規制が完全に撤廃されたのは六九年です。
 一九五九年の琉球新報にはコザ市の青年有志が「正月には日の丸を揚げましょう」と国旗掲揚運動を行う記事が、六四年オリンピックの年には、聖火リレー歓迎のために生命保険会社が琉球新報社へ国旗を寄贈、そのうちの二〇〇本が中部支局で無料配布されましたが、配布開始からわずか一〇分で品切れ。日の丸を求めて大勢の人々が集まった様子が伝わってきます。
 異民族支配下のウチナーンチュにとって、国旗は文字通り、復帰を願う旗印だったのですね。
さて、現在の国旗の存在はどうなのでしょう?
広報おきなわ(№466)/2013年(平成25年)4月号
【写真キャプション】左:砲弾型の国旗ケース/右:紙製の国旗ケース

戦後文化シアター 今月のヒストリート「米国製の丈夫な食器」


 白色にブルーの2本のラインが入ったカップやお皿を見たことありますか?
 写真のカップはアメリカのパイレックス社とファイヤーキング社の商品です。
頑丈で耐熱性にすぐれた厚手のガラス素材ですが、カップや皿以外の容器類もあり、デザインも豊富で世界中で愛用されています。しかし、これらの商品が米軍に納入されていたのはあまり知られていないようです。特に写真のデザインは米海軍に納入されていたもので、沖縄ではよく見かけるデザインです。見るどころか毎日使っているという方も多いかもしれませんね。
 軍隊で使用する品物は国が莫大な費用をかけて開発製造しているので耐久性や機能性などはかなり重視されており、私も何回か落としたことがありますが、割れません。実は私自身このデザインのスープ皿が大好きで好んで使っている一人です。
 この食器を家庭の食卓でみかけるようになったのは、米軍基地内のレストランで使用されていたものが、払い下げ品で出回ったり、働いていた方から譲り受けたりしたからで、おしゃれな食器だからという感覚よりも、やはりモノがない時代、使えるモノは何でも利用したという方が正解でしょう。現在、このデザインは愛好家の間でも人気があり貴重なものとなっているようです。
広報おきなわ(№465)/2013年(平成25年)3月号
【写真キャプション】左:ファイヤーキング(1960~70年代作)/右:パイレックスブルーライン