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戦後文化シアター 今月のヒストリート「戦世の子どもたち」


 戦後69年の今年、沖縄市平和月間の賛同企画展「沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ」に引き続き、10月15日から、「戦世の子どもたち(コザ孤児院:こじいん)」を開催します。
 沖縄市の嘉間良に〝戦災孤児〟を収容した「コザ孤児院」や1950年代に島マスさんが設立した「コザ女子ホーム」などの関係資料を展示する予定です。
 1953年11月13日付の『琉球新報』に、「親に恵まれぬ学童」という見出しで、「沖縄には戦後〝戦災孤児〟の語が生れ〝靖国の子〟の美名はこの中に影をひそめてしまった。戦災孤児の多くは親類縁者に引取られ、或は厚生園などの社会施設に収容されてすくすく伸びているが反面、路頭に迷い転落の一途をたどっている者もあり憂慮されている」と掲載され、また、文教局の調査結果によると、沖縄群島の小中学生約12万3,000人のうち、3万1,000人余り(4人に一人)が、片親または両親がいない生徒で、そのほとんどが戦災児童とみられるとのことです。この人数には、沖縄戦当時、小学校の中高学年や中学生だった生徒は含まれていないので、さらに多くの子どもたちが、戦争によって家族を失いながらも、戦後を生きてきたことになります。
 もう一度、戦争、平和についてともに考えてみませんか。ぜひ、足をお運びください。
広報おきなわ(№484)/2014年(平成26年)10月号
【写真キャプション】沖縄本島コザの医務室、1945年8月4日(資料:沖縄県公文書館)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ』、開催中」


 1950年、本格的な米軍基地の建設とともに、純農村地域であったコザの街は一変します。県内外から、職を求め多くの人々が集まり、急激な都市化が進んで行きました。その一方で、戦争孤児や浮浪児、青少年の非行問題が深刻化していました。米軍に捕まった子ども達は、大人同様に軍事裁判にかけられ刑務所へと送られていきました。この状況を改善すべく群島政府は児童福祉司をコザ警察署へ配置します。その役を担ったのが、越来村の厚生員だった島マス女史です。女史は、軍事裁判にかけられた子ども達を一時的に保護し、親元へ帰すだけでなく、後に女子教護施設「コザ女子ホーム」を開設します。売春や窃盗で保護された少女たちが社会へ復帰できるよう、彼女らと共に生活し、子ども達の更正に力を注いだのです。島マス女史とその活躍した時代を写した写真は、現在、ヒストリートⅡで開催している企画展「沖縄市の沖縄戦―そして戦後へ」において紹介しています。みなさまもぜひ、ヒストリートⅡへ足をお運びください。
広報おきなわ(№483)/2014年(平成26年)9月号
【写真キャプション】琉球政府 コザ福祉事務所/谷本トーマス氏提供

戦後文化シアター 今月のヒストリート「兄弟都市、豊中市との絆」


 沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリートⅡ」では、8月7日(木)より「沖縄市の沖縄戦」展を開催します。そこで今回は、沖縄戦がきっかけとなったあるエピソードを紹介します。
 時はちょうど50年前の1964(昭和39)年。沖縄に視察のため訪れた大阪府豊中市助役の竹内義治氏(故人、のちに市長)が、当時のコザ市長であった大山朝常氏(故人)と懇談し、「豊中市出身者150名が沖縄で戦死しているが、ほとんど遺骨も帰ってきていない。何か記念になるものがほしい」と相談します。そこで大山氏は糸満市摩文仁の海岸の石を白木の箱に納め、豊中市に贈りました。遺骨を迎えることができず、また、沖縄へ渡るのも容易ではなかった時代のこと、豊中市の遺族たちは大変喜んだようです。これをきっかけとして豊中市はコザ市職員の研修を受け入れ、両市の交流が始まります。
 その後も両市の交流は続き、1971(昭和46)年にはこどもの国に「少年の像『合奏』」が贈られます。1974(昭和49)年に沖縄市が誕生した際、両市は改めて「兄弟都市」を宣言しました。沖縄戦で家族を失った遺族への慰めから始まった両市の交流。「兄弟」の絆はこれからもますます深まっていくことでしょう。
広報おきなわ(№482)/2014年(平成26年)8月号
【写真キャプション】豊中市から贈られた「少年の像」除幕式、1971年2月(津覇ヨシ子氏提供)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「特別展『沖縄市40年の横顔(スケッチ) PART2』、開催中」


 ヒストリートⅡでは、企画展「沖縄市40年の横顔(スケッチ)PART2」を開催中です。PART1ではコザ市と美里村の合併までの歩みを紹介しましたが、今回は沖縄市誕生からの40年間を展開しています。
 これまでの40年を振り返ると、一番街のアーケードが落成し、本市でピースフルラブ・ロックフェスティバルや、おきなわマラソン、キジムナーフェスタなどの文化イベントが開催され、ヒストリートがオープンするなど沖縄市が発展していく一方で、米同時テロの影響が市民生活に暗い影を落とす出来事もありました。
 今号はプロ野球球団、広島東洋カープの沖縄市キャンプを取り上げます。市営球場・陸上競技場・体育館などのスポーツ施設が完備されキャンプ地として脚光を浴びていた本市で1982年2月、広島カープが初めてキャンプイン。以降、カープは84年に3度目の日本一に輝き、86年と91年にリーグ優勝を果たしました。今年2月に落成の「コザしんきんスタジアム」で開催された本市初のオープン戦は惜しくも引き分けに終わりましたが、今シーズン好調なカープに、市民は30年ぶりの日本一を期待しています。
広報おきなわ(№481)/2014年(平成26年)7月号
【写真キャプション】ウインドブレーカーや野球帽、サイン入りバットなど、様ざまな広島カープグッズを展示

戦後文化シアター 今月のヒストリート「コザ市、美里村の公印」


 写真の印鑑は、コザ市と美里村で使われていた公印です。現在印鑑は私たちの生活に身近な存在ですが、その歴史は古く、古代オリエントに起源があると考えられています。日本へは中国を経て伝わったといわれており、九州で発見された金印は有名ですね。
 印鑑の中でも、役所や企業、団体などが使用する印鑑は公印と呼ばれ、私たちが日常使用する私印とは異なります。重要な決め事なども、書類に印鑑を押して初めて効果を発揮します。その点では、公印はその団体の歴史の重要な出来事に関ってきたといえます。両市村の公印は、それぞれの街を間接的に形作ってきた歴史の証人といえるのではないでしょうか。この2つの公印は、1973(昭和48)年12月27日、「コザ市・美里村合併に関する協定書」にも押印され、翌年4月1日の沖縄市誕生とともにその役目を終えました。
 現在ヒストリートⅡでは、沖縄市の40年間を諸資料で紹介する『沖縄市40年の横顔(スケッチ)PART2』を開催しています。節目の年に、沖縄市の歴史を考える機会としてぜひ足をお運びください。
広報おきなわ(№480)/2014年(平成26年)6月号
【写真キャプション】「沖縄県中頭郡美里村長之印」と「コザ市長之印」の公印

戦後文化シアター 今月のヒストリート「市制施行40周年記念特別展『沖縄市40年の横顔(スケッチ)PART1』、開催中」


 今から約350年前の1666年のこと、越来間切(間切は現在の市町村にあたる)が分割され、美里間切が新設されました。それから約300年後の1974(昭和49)年に美里村とコザ市(旧越来村)が合併し、「沖縄市」が誕生したのです。 合併にあたり、新市名を公募した結果、公募総数は384通、新市名候補数は161種におよびました。一番多かったのが「コザ市」で65票でしたが、選定委員会が審議した結果、合併の基本方針が対等合併としていたこともあり、2番目に公募(62票)が多かった「沖縄市」に全会一致で決定したようです。
 募集結果の一覧を見てみると、コザ(古謝・胡差)や越来、美里から各1文字をとって市名としたものも20種ほどありました。愛着のある旧市村名を残したいという思いがあったのかもしれません。例えば越美、越里、美胡、美来、美越、古里などがそうです。他にも、国際文化観光都市を目指しているからでしょうか、国際という市名もありました。
 新市名の選定理由の一つに「名は体を表すで、新市の発展目標を大きくアピールするのにふさわしいこと」とあります。これからも本市の発展を願うばかりです。
*ヒストリートⅡでは、市制施行40周年記念特別展Part1を開催中(5月31日まで)。
広報おきなわ(№479)/2014年(平成26年)5月号
【写真キャプション】沖縄市誕生市民祭典 1974年11月3日

戦後文化シアター 今月のヒストリート「新生・沖縄市」


 今月1日で市制40周年を迎えた沖縄市。本市は県内で初めて、日本国の「地方自治法」が適用されて誕生しました。1972(昭和47)年の日本復帰から2年後、早々に美里村とコザ市は対等合併を叶え、県下第2位の人口を擁(よう)する大きな都市となったのです。
 「新生・沖縄市」。あっという間に40歳となりました。誕生当時「基地の街」のイメージから脱却し、全国的にも親しみやすい新市名として採用された「沖縄市」というビッグネームも、最近はだいぶ似合うようになってきたと思いませんか?
 この記念すべき年、ヒストリートⅡでは沖縄市市制施行40周年記念特別展『沖縄市40年の横顔(スケッチ)PART1』を開催いたします。第一弾となる今回は、沖縄市誕生から現在までのあゆみを、歴代市長の市政や社会背景とともに振り返ります。
 諸資料を通して、本市40年間の様々な表情を、改めて見つめ直してみませんか?現在のまちのあり方がわかり、将来のまちを創るためのヒントが得られるはずです。みなさまもぜひ、ヒストリートⅡへお越し下さい。
広報おきなわ(№478)/2014年(平成26年)4月号
【写真キャプション】今ではなつかしい沖縄市役所旧庁舎【1993年撮影】

戦後文化シアター 今月のヒストリート「Kレーション」


 3月上旬より、企画展「新収蔵品展」の開催を予定しています。今回は平成24年2月から平成26年1月にかけて市民からいただいた資料を公開。その中からKレーション(レプリカ)を紹介します。
 Kレーションとは米軍の野戦用携行糧食の一種で、開発者のアンセル・キース博士の頭文字をとって「Kレーション」と呼ばれました。空挺部隊用の軽量の携行食として開発され、1942年より導入開始。弁当箱大の?引(ろうびき)の紙箱に牛肉やポークなどの缶詰、ビスケット、煙草、チューインガムなどが詰められたKレーションは、そのコンパクトさから全部隊に支給されるようになりました。しかし、この戦闘糧食は同じ内容の食事ばかりで、米兵の間に慢性的な味覚的欲求不満があったようです。
 沖縄においては、戦時中に米軍に投降した難民や捕虜にKレーションが与えられました。高原にあったインヌミ収容所では、引き揚げ直後の人にKレーションをあげると喜びましたが、長く滞在している人は食べ飽きて、誰も手を出さなかったそうです。
広報おきなわ(№477)/2014年(平成26年)3月号
【写真キャプション】Kレーションは蝋紙の箱に入り、朝食、昼食、夕食に分封されていた(左より)。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『石川文洋写真/沖縄からベトナムへ』、開催中」


 昨年6月、市内のサッカー場から、ベトナム戦争時に使われたと思われる枯葉剤の成分を 含むドラム缶が見つかり、世間を騒然とさせました。
 そのベトナム戦争は、東西冷戦を背景に1960年から始まり、65年に米軍も本格的に介入、75年の南ベトナムの首都サイゴン(現、ホーチミン)陥落まで、長く激しい戦闘が展開されました。民間人の死者は約450万人、米軍の死傷者は約35万人を数えました。また、戦時中に大量に散布された枯葉剤の後遺症は、現在でもなお、住民に相当な苦痛を与えています。
 左は当時のセンター通りの様子です。沖縄は米軍の後方基地として重要な役割を担っていました。コザの歓楽街は、ベトナムへ出発する米兵や帰休兵で大いに賑わい、「一晩で2,000ドル(当時、一軒の家が建つ金額)を稼いだ」という逸話もあるほど「ベトナム景気」で沸いていました。その一方で、「戦争に荷担する加害者だ」とする意識から沖縄住民によるベトナム反戦運動も高まっていったのです。
 本企画展では、「米軍」「ベトナムの民衆」「沖縄人(ウチナーンチュ)」の視点でベトナム戦争を見ていただき、今後の沖縄を考える機会になればと思います。
広報おきなわ(№476)/2014年(平成26年)2月号
【写真キャプション】夜のセンター通り(現、中央パークアベニュー)【撮影/石川文洋氏】

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市誕生の夜明け前」


 2014年、新しい年の幕開けです。明けましておめでとうございます。今月は、来る4月で沖縄市制40周年を迎える本年の、最初の企画展「石川文洋(いしかわぶんよう)写真/沖縄からベトナムへ」を紹介いたします。
 本企画展は、在沖(ざいおき)米軍が1965(昭和40)年2月の北爆(ほくばく:北ベトナムへの爆撃)以降から実戦に加わった「ベトナム戦争」と、その当時の沖縄の様子を、報道カメラマン・石川文洋さんの写真を通してお伝えするものです。
 生々しい戦場写真の数々からは、現地住民だけでなく、侵攻した米軍人まで大きな犠牲をはらった、厳しく激しいベトナム戦争の様子がよく判ります。
 一方、「基地の島・沖縄」には、皮肉にもドルの雨が降りました。いわゆる「ベトナム景気」です。しかしそれは長続きせず、70年代に入ると、米国によるドル防衛策、日本復帰によるドル景気の低下と続き、ついに73年1月の「(ベトナム和平)パリ協定」においてベトナム戦争の停戦が決定し、米軍が同年3月に現地撤退したことで、「ベトナム景気」は終焉を迎えました。
 コザの街ではこの頃から「基地経済からの脱却」がしきりに叫ばれ、日本人観光客の誘致に力を入れ始めました。市民は、74年の沖縄市誕生を目前に控え、新たな光を、基地の外や街の中に見出したのです。
 本企画展では、ベトナム戦中における「基地の島・沖縄」の様子も、同時に紹介しています。
 沖縄市誕生の夜明け前です。
広報おきなわ(№475)/2014年(平成26年)1月号
【写真キャプション】興奮と恐怖ビンディン省 1966年【撮影/石川文洋 氏】