戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・年表コーナー」
2006/06/01
六月です。今年に入ってもう半分?まだ半分?皆様は、いかがお過ごしでしょうか。 さて、先月から沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリート」の各展示コーナーの紹介をしていますが、今月紹介するのは展示室の中でも特に注目を集めている年表コーナーです。この年表は縦125cm×横580cmの大きなテント生地に文字や写真を印刷したもので、【一九四五(昭和二〇)年四月二日・越来村字嘉間良に米軍宣撫隊本部が設置される】から【二〇〇五(平成十七)年九月七日・ヒストリートオープン】まで、60年間に起きた沖縄市の出来事一七四件を紹介しています。年表記事の多くは、戦後新聞の沖縄市関係記事約四〇万件の中から選択し、他所では見ることのできない沖縄市だけの年表に仕上がりました。
ここでクイズです。コザ市の家庭給水が開始されたのは一九五八(昭和三三)年八月二二日ですが、給水第一号はどなたのお宅だったでしょう? 答えは……
ヒストリートの年表でお確かめ下さい!
広報おきなわ(№384)/2006年(平成18年)6月号
【写真キャプション】ヒストリートの年表コーナーの様子
戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・沖縄戦コーナー」
2006/05/01
入室一万人目を達成し、話題沸騰の戦後文化資料展示室「ヒストリート」。今月より、ヒストリート各コーナーの紹介をしていきたいと思います。
ヒストリートには戦後沖縄の序章たる「沖縄戦のコーナー」があり、日米両軍の兵器や軍装品、市内における戦没者数の表などが展示されています。本市は米軍の上陸地点から比較的近距離にあったことから、いち早く米軍の統治下に置かれ、嘉間良の難民収容所を中心に「戦後生活」がスタートしました。本島南部で日米両軍が激戦を展開している頃、市内の収容所では小学校が開校し、市長・助役選挙が行われるなど、復興に向けて動きだします。しかし、市域で戦災や戦死者が殆どなかったわけではなく、米軍が市内を制圧した四月には「自決者」を含めた戦没者が多発しているのです(本市は、戦前の人口の約三分の一の五三○○人余が太平洋戦争で亡くなっている)。このように一口に沖縄戦といっても、それぞれに地域性がみられます。他方、沖縄戦は戦後六○年におよぶ沖縄と米軍のつき合いの始まりでもありました。
同コーナーを見て「沖縄市における沖縄戦」を考えてみてはいかがでしょうか。
広報おきなわ(№383)/2006年(平成18年)5月号
【写真キャプション】沖縄戦のコーナー
戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリートのガイドブックを発刊しました!」
2006/04/01
戦後六○周年の昨年九月七日(沖縄戦終結の日/市民平和の日)に開室した戦後文化資料展示室「ヒストリート」は、おかげ様を持ちまして来室者が一万人を越えました。
ヒストリートは、本市が長年にわたって収集してきた戦後の写真や当時の実物資料、戦後六○年間の年表が展示され、沖縄市の戦後史を気軽に知ることができます。
入り口に設置された実寸大の米軍基地フェンスの模型や再現されたAサインバーなどのユニークな展示が目を引き、「コザ暴動」「毒ガス移送」「全軍労闘争」といった戦後の大事件の写真が圧倒的な迫力でせまってきます。その一方で、ジュークボックスから流れるレトロな音楽が心をなごませませてくれることでしょう。戦後に関する文献・雑誌も豊富にそろっています。
このたび、市ではヒストリートに展示されている写真や実物資料、年表などを紹介したリーフレットを発刊しました(左)。この一冊で沖縄市の戦後がわかります。売り切れが予想されますので、早めにお求めください。
広報おきなわ(№382)/2006年(平成18年)4月号
【写真キャプション】定価:500円
戦後文化シアター 今月のヒストリート「写真の情報、お寄せ下さい」
2006/03/01
春三月、新たな出会いや旅立ちを感じる季節となりました。
さて、沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリート」では、先月に引き続き、「マイベリー氏の世界(2)~50年前の沖縄ウォーキング」と題して、元米兵のマイベリーさんが一九五三(昭和二十八)年頃に撮影した沖縄本島各地の写真からライカム周辺や中南部、那覇の写真四十二点を紹介しています。
左の写真は沖縄市内のおばあちゃん。こういう姿も今ではめったに見られなくなりました。他に、建立初期のひめゆりの塔やガリオア資金(米国による援助資金)で一九五三年に落成した琉球政府行政府ビル、馬車とバスが行き交う国際通りや那覇のマチグヮーなど懐かしい風景が溢れています。
しかし、撮影場所がわからない写真もあり、ぜひ、皆様の情報・教示をいただきたいと思います。
皆様も「ヒストリート」で50年前の沖縄と出会ってみませんか。新たな発見があるかもしれません。御来室をお待ちしています。
広報おきなわ(№381)/2006年(平成18年)3月号
【写真キャプション】畑仕事の合間にホッと一息。(1953年頃)
戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展第二弾・マイベリー氏の世界(2)、開催中!」
2006/02/01
戦後文化資料展示室「ヒストリート」の企画展「マイベリー氏の世界(2)」が二月より始まりました。元米兵のマイベリー氏は、むつみが丘公園一帯にあったスターケージ(軍刑務所)に勤務するかたわら、本島各地を訪れ、数多くの風景を写真におさめました。写真は戦後復興に向けた街や村の様子が記録されており、人々の明るい表情が印象的です。今回は前回に続き、一九五三年頃のライカム周辺や中南部、那覇の写真を紹介します。
ライカムは本市南の玄関口一帯にその名が残っていますが、語源は米軍の「琉球軍司令部(RYUKYU COMMAND)」の略称「RYCOM」から来ています。これは在琉球米軍の統率・指揮を目的とした司令部のことで、本市と北中城村の境界付近にあったようです。当初、沖縄戦終結とともに軍政を担当する沖縄島司令部が設置されましたが、何度かの変遷を経て四八年に琉球軍司令部となりました。同司令部は五六年まで続きます。他にプラザハウス内にある初期のロジャースの写真なども展示されています。
多くの市民の皆さまの来室をお待ちしております。
広報おきなわ(№380)/2006年(平成18年)2月号
【写真キャプション】ライカムプラザ、エクスチェンジ
戦後文化シアター 今月のヒストリート「第一回企画展マイベリー氏の世界、好評開催中!」
2006/01/01
あけましておめでとうございます。
昨年九月にオープンした沖縄市戦後文化資料展示室『ヒストリート』もおかげさまで来室者七千人を数えています。
さて、『ヒストリート』は昨年に引き続き今月も「第一回企画展マイベリー氏の世界」を紹介しています。この企画展は、元米兵のマイベリーさんが勤務していたスターケージを中心に一九五三年から五四年に撮影した市内各地の写真四十六点を展示。紹介と同時に情報を集めています。左上の写真はマイベリーさんによると諸見里付近で撮ったとされています。写真をよく見ると柱に「太田守時」という名前が見えます。
他にも「諸見セントラルバザー」や「ノリタケ」という看板のある店の場所など皆様の記憶が欲しい写真がまだまだあります。セントラルバザーは、一九五〇年代の新聞に諸見大通り、諸見里三区在として広告が出ている店だと思われますが、はっきりした場所がわかりません。是非一度『ヒストリート』へ足をお運び下さい。懐かしい風景や意外な人に写真の中で巡り逢えるかもしれません。
最後になりましたが本年もどうぞよろしく!
広報おきなわ(№379)/2006年(平成18年)1月号
【写真キャプション】この方、この店(履き物屋)を知りませんか
戦後文化シアター 今月のヒストリート「スターケージ」
2005/12/01
戦後文化資料展示室「ヒストリート」の第一回企画展「~マイベリー氏の世界(1)~ スターケージを知っていますか?」が去る十一月一日より開催されています。元米兵のマイベリー氏が勤務していたスターケージを中心に市内各地の写真四六点を展示。今後数回にわたって同氏の写真を公開していきたいと思います。
スターケージとは、現在のむつみが丘公園一帯にあった米陸軍刑務所のことで、第98警察大隊C中隊のスタッフ約二○○人によって管理・運営されていました。そこはケンカなどで捕まった兵たちが拘置されており、マイベリー氏が勤めていた一九五三年頃は八○~一○○人ほどが収容されていたと言いますが、詳しい資料がないために同刑務所の正確な建設時期や運営期間などは不明です。
しかし、部隊長宿舎や発電所の位置、メーヌシー(むつみが丘)下のグラウンドで米兵たちが野球に興じていたことなど、来室した方々よりスターケージの様子を解明する貴重な情報が続々と寄せられています。多くの市民の皆さまの来室をお待ちしております。
広報おきなわ(№378)/2005年(平成17年)12月号
【写真キャプション】軍刑務所看板前の子供たち(1953年頃)
戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート、初の企画展」
2005/11/01
去る九月七日に市内のパルミラ通りにおいて、戦後文化資料展示室「ヒストリート」がオープンしました。これは「基地の街」などと形容されてきたわがまちの戦後史にスポットを当て、歴史を振り返り、併せて地域振興にも寄与したいとの願いから開設したものです。戦後のわがまちが、センター通り等の「通り」、つまりストリートから発展してきた歴史(ヒストリー)を持っていることからのネーミング。ヒストリートのオープンに伴い、本コーナーは展示室を紹介する欄に模様替えしました。
今月、初の企画展を予定していますが、第一弾は、ウイリアム・マイベリーさん(在、米国)から提供していただいた写真(約百五〇枚)を一般公開も兼ね、写真についての情報収集を行おうとの目的で開催するものです。彼は一九五〇年代の初め、上地にあった米陸軍警務所(スターケージ)に勤めていた方で、刑務所をはじめ、当時の市内外の写真をたくさん寄贈していただきました。多くの市民の皆様の来室をお待ちしています。
広報おきなわ(№377)/2005年(平成17年)11月号
【写真キャプション】上地にあったスターケージ(1953年頃)
戦後文化シアター 時代の交差点60th「ヒストリート、オープン!」
2005/10/01
去る九月七日は、一九四五年のこの日に南西諸島の降伏調印式が行われて以来、実に六〇回目を数える記念すべき日であった。その記念すべき日に沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリート」が市中央のパルミラ通りにオープンした。
「沖縄市の戦後史と文化を考えたい」をテーマに、沖縄戦の前夜から現在に至る「たくさんのコザたち」が登場する。「ニューKOZA」のたて看板に誘われながら入り口をくぐると、ヒンプンを意識した実物大の基地フェンスに迎えられ、中は、茶の間に登場した頃のテレビやコンロ、ジュラルミン製の洗面器や急須、市内各校の校章、復帰前の貨幣など当時の生活用品が所狭しと並ぶ。圧巻は「戦後生活コーナー」に復元された米軍兵舎のコンセット(かまぼこ型プレハブ)と「Aサインバー」である。また、これらを彩るように、数百点に及ぶ「コザ」の写真が軒を争う。本市の戦後史年表は、本当に懐かしく、走馬燈のようにいろいろな出来事を回想できる。「展示を見て元気が出た」とは、ある見学者の弁。百聞は一見に如かず。沖縄市の戦後史と文化を考えてみませんか。
広報おきなわ(№376)/2005年(平成17年)10月号
【写真キャプション】沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリート」
戦後文化シアター 時代の交差点60th「琉球列島(南西諸島)の降伏調印」
2005/09/01
九月七日は「市民平和の日」。沖縄市は、その日を沖縄戦が終わり、平和への歩みが始まった日として一九九三(平成五)年に条例として定めた。
一九四五(昭和二〇)年九月二日、東京湾の米戦艦ミズーリ号上で日本が連合国に対し、公式に降伏調印したことをうけて、九月七日、旧越来村字森根(現、沖縄市。嘉手納基地内)において南西諸島守備軍の降伏調印式が行われ、ここに米国による沖縄の統治が正式に始まったのである。『仲宗根山戸日誌』には「本日、公式ニ沖縄ハ米領トナル。」と淡々と記されている。が二七年、その統治が及ぶということを誰が予想したであろうか。
さて、沖縄が日本に復帰して異民族の統治は終わりを告げたかのようであったが、戦後六〇年の歳月を経ても、なお基地が日常化している沖縄の現状がある。「戦後」をひとつの大きなテーマとする沖縄市は、「基地の街」と称された時代に、異文化との接触、融合によって強烈な個性をもつ街を形成してきた。異民族の統治によって何を得たのか、何を失ったのか、何をつくり出していったのか。二七年間の錯綜を「戦後」という歴史の中でひとつひとつ繙くことを沖縄市は担っている。
広報おきなわ(№375)/2005年(平成17年)9月号
【写真キャプション】降伏調印式(1945年9月7日)