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戦後文化シアター 今月のヒストリート「4月1日」


 四月です。入学・就職など新生活が始まる方には期待と緊張の特別な月でしょうか。今回は四月に起きた出来事を挙げてみます。
 まず、一九四五年四月一日。この日米軍が沖縄本島に上陸。沖縄の運命が大きく変わった始まりでした。戦後県内各地の土地が軍に接収されていた中、五〇年四月にはコザビジネスセンター商業街用地(二二万七千坪)が解放。これは空軍管轄の土地解放では県内初でした。土地解放に先がけ、これも県内初の競輪大会を催すなど商業街建設への住民の期待が高まります。その後本格的な基地建設に伴い、センター通りは米兵たちの歓楽街として賑わい、ベトナム戦争時代は一晩で一軒の家が建つと言われるほどに潤いました。基地と共に大きくなったコザ市でしたが、復帰後は基地依存経済からの脱却をめざし、一九七四年四月一日、美里村と合併し、沖縄市が誕生しました。
 沖縄市の分岐点となる事が過去の四月にありました。今後(未来)の四月にはどんなことが待っているのでしょうか。過去を学んで未来を切り開く!私たち自身の手で!
 ヒストリートには沢山の沖縄市の戦後情報があります。ぜひ足をお運び下さい。
広報おきなわ(№394)/2007年(平成19年)4月号
【写真キャプション】沖縄市誕生 1974年4月1日

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ジュークボックス」


 ヒストリートの左奥の部屋にはジュークボックスが展示されています。ジュークボックスとは数百枚のレコードが内蔵され、硬貨を投入し選んだ曲を楽しむもので、一九二○年代の米国で開発され、沖縄には昭和三○年代に入ってきました。当初は基地内のクラブなどで利用されていましたが、軍の払下品がAサインバーに流れるようになり、六一年頃には米国から二○○台が輸入されコザなどのAサイン業者に貸与されるようになりました。
 写真は照屋のAサインバーで、ジュークボックスから流れる曲にのって、陽気に踊る黒人たちの様子。照屋黒人街ではAサインバーだけでなく、洋裁店にもジュークボックスが置かれ、黒人たちは洋服を注文するかたわら、ジュークボックスの前で輪になり、曲に合わせて踊っていたそうです。
 ジュークボックスはカラオケの出現により次第にその姿が見られなくなりましたが、最近はインテリアとして人気を呼んでいるそうです。
広報おきなわ(№393)/2007年(平成19年)3月号
【写真キャプション】照屋のAサインバーにて 1970年

戦後文化シアター 今月のヒストリート「全沖縄軍労働組合」


 ヒストリートの一角に、若者や子どもたちが見ると「何これ、戦争?」と尋ねてくる写真が展示されています。武装した米兵とヘルメットをかぶった男たちが睨みあって対峙している写真ですから「戦争?」と思っても仕方ないかもしれませんが、実は全軍労のストのピケ隊と米兵の写真なのです。
 全軍労とは「全沖縄軍労働組合」の略称。当初、著しく権利を制約されていた基地労働者が待遇改善を求めて結成した組織で一九六三(昭和三八)年に誕生。その後復帰運動の先頭に立つほどの組織に成長し七〇年には国会議員も輩出しました。ところが復帰を前に米軍は基地労働者の大量解雇を通告。左の写真は三千人の大量解雇撤回要求を求めて行われた四八時間ストの様子。ピケ隊の必死さと米兵の威圧する態度が緊迫感を漂わせています。
 ストへの報復で米軍がコザ市への米兵の立ち入りを禁ずるため、米兵相手の業者が全軍労のピケに反対してデモを行うなど「生活をかけた」対立も浮き彫りになりました。
 全軍労を通して見えてくる問題は沖縄全体が負わされている課題でもありました。
 ※全軍労は七八年、全駐労沖縄地区本部となりました
広報おきなわ(№392)/2007年(平成19年)2月号
【写真キャプション】全軍労48時間ストライキ 1971年2月11日

戦後文化シアター 今月のヒストリート「映画館」


 戦後の貧しい時代、映画は大衆にとって唯一の、ロマンチックな夢を見ることのできる娯楽でした。戦後、世の中が落ち着いてくると、沖縄各地に次々と映画館がオープン。どこの映画館も立ち見の出る盛況さで、映画館は飛躍的に増加していきます。
 一九五八年一月、コザ市は前年からの映画館建築ブームに沸いていました。当時、市内には映画館が十一館あり、さらに四館の増設が見込まれていました。それに対し「業者の乱立は共倒れになる」と増設反対の動きもありましたが、一月には下火になっていました。共倒れの心配を吹き飛ばすかのように全琉で映画人口は増え続けていきます。だが、テレビの台頭により六二年から客足は大幅に落ち、映画産業は斜陽の時代を迎えました。以降、ビデオ普及等もあって映画館は減り続け現在、市内には二館しか残っていません。
 いろいろな変遷を遂げた沖縄の映画史。ヒストリート内に市内の懐かしい各映画館の写真を展示。ぜひ、ご覧になって下さい。
広報おきなわ(№391)/2007年(平成19年)1月号
【写真キャプション】ピカデリー国映(現ピラミッド)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「コザ暴動」」


 あっという間に師走です。平成18年は皆様にとってどんな一年だったのでしょうか?
 今から三十六年前の十二月二十日、ここ沖縄市で大きな事件が起きました。きっかけは道路を横断していた沖縄の男性と米軍人が運転する車による交通事故。被害者は全治十日の怪我でしたが、事故を知り集まって来た人々はささいな事故とは受け取りませんでした。これまで米軍人がひき逃げや死亡事故を起こしても適切に裁かれていなかったことに対する不信・不満や抑圧されてきた思いが一気に爆発、「アメリカ人を許すな」と言う声と共に黄ナンバー(軍人・軍属の車両ナンバー)の車を次々と横転させ放火しました。「コザ暴動」です。
 ヒストリートで、コザ暴動の写真を見た方から「今だから言うけど僕も車をひっくり返したよ」とか、「車から降ろされて車を燃やされた」と言う米国人などの話を聞くことができました。まさに普通の人々の間で起きた事件だったことが伺えます。
 「コザ暴動」についてもっともっと知りたくなったのではありませんか?残念ながら紙面ではお伝えしきれません。ぜひヒストリートへお越し下さい。
広報おきなわ(№390)/2006年(平成18年)12月号
【写真キャプション】1970(昭和45)年12月20日、コザ暴動

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・降伏調印コーナー」


 今月はヒストリートの出入口に位置する沖縄戦降伏調印式のコーナーを紹介します。
 一九四五年夏、日本は降伏等を定めたポツダム宣言を受諾し、九月二日に東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。これを受け、海外に駐屯する日本軍は次々と降伏調印に臨み、沖縄(南西諸島)方面では同月七日に旧越来村森根(現嘉手納基地内)で降伏調印式が行われました。戦車や武装兵が待機し、大勢の米兵が見守る中、琉球列島の沖縄守備軍の各司令官と沖縄を統治する米第10軍司令官が降伏文書に署名。名実ともに沖縄戦は終結し、住民は戦闘の脅威から解放され、戦後の地方行政がスタートします。
 ところで、沖縄戦降伏調印文書は六通作成され、一通は米国立公文書館に保管されていますが、残りの所在は不明でした。しかし、原本の可能性のある文書が去る九月、南太平洋の仏領ニューカレドニアで発見されました。発見したジャーナリストのご厚意により、提供いただいた降伏文書(コピー)はその経緯を示した記事と共にヒストリート内に展示しています。
広報おきなわ(№389)/2006年(平成18年)11月号
【写真キャプション】提供された沖縄戦降伏文書(複写)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・戦後の子どもたち」


 スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋…
南国沖縄も少しずつ過ごしやすい季節になりました。皆様はどんな秋をお過ごしですか?
今月紹介するコーナーは「戦後の子どもたち」。
 戦争で何もかも失い、校舎も教科書もない青空教室で戦後の学校は再開されました。沖縄市内で戦後学校が開校したのは、一九四五(昭和二十)年六月六日、まさに沖縄本島南部では激しい掃討戦の中を人々が逃げまどっている頃でした。これは米軍の上陸地点から比較的近距離に位置していたため、いち早く米軍の統治下におかれ「戦後」が早くやってきたことに起因しています。
 何にもない中でも、子どもたちは学び、石蹴りやかくれんぼなど遊具を必要としない遊びに興じました。当時の写真には、幼い兄弟をおんぶして遊ぶ子どもたちの姿が残されています。社会が落ち着くにつれ、フラフープやだっこちゃんなど空前の人気を博した遊具(玩具)も登場しました。ここでクイズです。沖縄市にだっこちゃんが現れたのは何年何月だったでしょうか?答はヒストリートで!
広報おきなわ(№388)/2006年(平成18年)10月号
【写真キャプション】現、胡屋公民館での幼稚園の様子。1955年頃

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・基地コーナー」


戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・基地コーナー」

 復帰前、米軍は沖縄を「太平洋の要石」と呼んで重視していました。これは海外の前進基地に戦闘即応兵力を配備して有事に対応するという米国の戦略から出たものですが、核・毒ガス兵器の貯蔵、特殊部隊の配備から作戦行動にいたるまで一切の制限がなかったので、沖縄基地は米国にとり、他に例を見ない貴重な前進基地でした。実際、本土の基地は戦後、著しく減り続けましたが、沖縄の基地だけは維持され続けています。
 現在、沖縄県における米軍基地の面積は全国のそれの七五%を占め、本市はその内の約七・四%に相当。市域総面積に占める米軍基地面積の割合は三五・九%と広大なものになります(自衛隊基地を含めると三六・一%)。また、市内の基地面積は県内で国頭村、東村、名護市、金武町に次ぐものです。
 かつて「基地の街」と称された沖縄市は、今も米軍基地から経済・文化などにおいて様々な影響を受けており、これからの街づくりにも多くの課題を残しています。
広報おきなわ(№387)/2006年(平成18年)9月号
【写真キャプション】基地のコーナー

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・生活コーナー」


戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・生活コーナー」

 夏本番です。最も沖縄らしいこの季節、暑さに負けず元気に乗り切りたいですね。
 さて、今回は「戦後の生活」コーナーを紹介します。ここでは、コンセット(米軍のカマボコ型兵舎)をイメージして作ったコーナーに、飛行機の残骸であるジュラルミンを溶かして作ったアイロン・やかん・洗面器や薬莢を利用した灰皿・花瓶、米軍服を仕立て直した子ども服、終戦直後の収容所で人々に生きる希望を与えたともいわれているカンカラ三線など、戦禍を生き抜いた人々の、まさにゼロからの出発を支えた道具たちが展示されています。
 また、展示ケースの中には一九七二(昭和四七)年の日本復帰まで、本土や外国に出かける時に必要だった身分証明書(パスポート)や郷土色豊かな色彩も美しい琉球切手、子どもたちが遊んだ面子(パッチー)などが並んでいます。暑い夏の一日、涼みがてらヒストリートで当時の生活に思いを馳せてみるのも一興かもしれませんね。
広報おきなわ(№386)/2006年(平成18年)8月号
【写真キャプション】戦後の生活コーナー

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・Aサインバーカウンター」


戦後文化シアター 今月のヒストリート「ヒストリート・Aサインバーカウンター」

 ヒストリートの展示の中で、最も「コザ」を感じさせるAサインのコーナー。
 Aサインとは復帰前、飲食店・ホテル等への米兵の入店を認めたAPPROVED(許可済み)の頭文字Aを大書した許可証のことで一九五三年に初めて発行され、店の内外に表示されました。基地の街コザでは、「Aサイン景気のよい時は市場や町の一般景気を潤す」といわれた程、関わりが深いものでしたが、Aサインを取得するには米軍による衛生・施設面での厳しい検査をパスする必要がありました。
 同コーナーではバーのカウンターを中心に米兵が愛飲した数々の酒、天井からつり下げられたドル紙幣いっぱいのカゴ、戦地へ赴く兵士が壁一面に貼ったサイン入り一ドル紙幣等、ベトナム景気の頃のAサインバーの雰囲気を再現しています。そして、コーナーの主役たるAサインは米軍発行のものと沖縄Aサイン連合会発行のものが展示されており、Aサイン制度の変遷を知ることができます。
広報おきなわ(№385)/2006年(平成18年)7月号
【写真キャプション】Aサインのコーナー