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戦後文化シアター 今月のヒストリート「めんこの絵柄が語る世相・ヒーローの歴史」


 先月の九月七日に、新展示室がオープンしました。当日は多くの方々がお越しくださり、本当にありがとうございました。
 今回は「ヒストリートII」からめんこ(パッチー)の紹介です。めんこの歴史は古く、江戸時代には粘土を焼いた「泥めんこ」があり、鉛、木など素材も色々。紙になったのは明治の後期で、形は丸形や角形以外に人形(ひとがた)などもあり、サイズも大小様々です。
 絵柄は世相を反映しており、ヒーローの歴史でもあります。当初は「武将」や「力士」などですが、戦時体制下になると「軍人」の絵柄と共に「ユダンニテキガメヲツケル」の標語が書かれた「防諜めんこ」なるものもみられます。
 しかし、一九四五(昭和二〇)年の敗戦を境に、米兵や西部劇の主人公に加えて、ローマ字入りのめんこが登場。世の中が落ちついてくると、映画俳優、漫画やアニメの主人公などがめんこを飾ります。
 ある方から話を伺いましたが「戦前のめんこはあまり残っていないみたいで、戦火で焼かれたのかモノ自体が少ないのかはっきりしない。戦後の子どもたちは、めんこの強度を増す為に石油を湿らせたり、遊ぶルールも仲間で発展させていったり…」と話す顔は少年のようでした。皆さんのヒーローが待っています。ぜひお越しを!
広報おきなわ(№424)/2009年(平成21年)10月号
【写真キャプション】戦前のめんこ

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「ヒストリートII」、オープン!」


戦後文化シアター 今月のヒストリート「「ヒストリートII」、オープン!」

 今月七日、いよいよ市民待望の「ヒストリートII」がパルミラ通りにオープンします。同室は、「ヒストリート」の兄弟館だった「しーぶんかん」を発展的に解消して新たに開室するもので、展示スペースもかなり広くなりました(ヒストリートの三軒隣り)。
 ヒストリートIIでは、日本道具学会の村瀬春樹さんより寄託された国内外の「戦中・戦後の転用品・代用品」、報道カメラマンの石川文洋さん提供のベトナム戦争や戦後沖縄の写真をメインに展示。
 また、展示室の出入り口には住吉自治会が提供した酸素ボンベ製の半鐘を設置しました。戦後まもない物が乏しかった頃は何でもリサイクルして使うのが当たり前で、使用済みの酸素ボンベは鐘に利用されました。ボンベ鐘は学校では時鐘用、集落では隣近所の寄り合いの集合を告げたり、遊んでいる子ども達に帰宅時間を知らせていました。展示しているボンベ鐘は住吉区内の鉄工業者が「防犯や連絡に役立てて」と区に寄贈したもの。区では婦人会やエイサー練習の開催を知らせていた他、酔った米兵が集落に侵入してくると、鐘を打ち鳴らして追い払ったそうです。
 半世紀に渡り地域を見守ってきたボンベ鐘をはじめ、数多くの貴重な資料を展示したヒストリートII。ぜひ足をお運び下さい。
広報おきなわ(№423)/2009年(平成21年)9月号
【写真キャプション】酸素ボンベの半鐘が、ヒストリートIIに設置される様子(7月30日)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「瓶のヤクルト」


 今月紹介するのは現在でも健康飲料として人気の高い乳酸菌飲料ヤクルト。
 左の写真を見て懐かしく思う人、へ~っと驚く人いろいろだとだと思います。ヤクルトも当初は瓶詰めで販売されていました。
 日本でヤクルトの製造・販売が開始されたのは戦前(一九三五年)ですが、株式会社ヤクルトが東京を本社として設立されたのは五五(昭和三〇)年。同年六月、ヤクルト沖縄総代理店が那覇市に開店し、九月には中の町に中部営業所が開所していること、六一年には市内に十一の取次所があったことが当時の新聞で確認できます。中部営業所開所の広告には「沖縄に進出以来未だ日浅きにも拘らず多数の方からご愛飲を頂き(略)中部の皆様のご要望に応えて(略)」とあり、比較的短期間に愛飲者を増やしたことがうかがえます。
 七二年に瓶の容器からプラスチック容器に変りますが、瓶のヤクルトを覚えている世代の方からは「風邪をひいた時しか飲めなかった」と小さな瓶に入ったヤクルトを大事に大事に飲んだ思い出話もよく聞きます。創業者は広く人々に飲んでもらえるようハガキ一枚の値段で販売するのが理念だったそうですが、残念ながらドル時代の沖縄での販売価格の記録は残っていないようです。覚えている方はご一報下さい。
広報おきなわ(№422)/2009年(平成21年)8月号
【写真キャプション】ヤクルトの瓶

戦後文化シアター 今月のヒストリート「壁に貼られたサイン入りの1ドル紙幣」


 ヒストリートのカウンター内、壁に貼られたサイン入りの1ドル紙幣。これは10年ほど前まで、中央パークアベニューにあったクラブ「タイガー」で見つかったものです。来店した記念にと、客が残していったこのような紙幣は、米軍人たちで賑わうクラブやバーなどの飲食店でよく見られました。
 特に、ベトナム特需にわいた1960年代後半から1970年代前半に掛けては、そのようなドル札を壁一面に貼り付けたAサインバーが、市内にも少なからずありました。サインの主の中には、戦地へ赴く時が迫った米軍人もいたことは想像に難くありませんが、彼らが残した「足あと」には、非常に考えさせられるものがあります。
 単なる記念として深い意味無く残したもの、「また来るよ」という気持ちで店に贈ったもの、または「きっとベトナムから帰って来るんだ」と、一種のまじないのような意味を込めたものもあったでしょう。
 そのようなドル札の主のどのくらいが、無事に戦地から帰還したでしょうか。店の経営者と共に、二度と帰ってこない主を待つ紙幣もあったかも知れません。何も語りはしない「サイン入りの1ドル紙幣」は、時に悲しい背景を強く訴えかけてくる資料にもなります。
広報おきなわ(№421)/2009年(平成21年)7月号
【写真キャプション】ヒストリートの壁に貼られたサイン入りの1ドル紙幣

戦後文化シアター 今月のヒストリート「軍隊手帳」


 今回はヒストリートの沖縄戦コーナーにある小さな「軍隊手牒」の紹介をします。
 明治時代の軍の成立から存在し、軍隊に入隊すると同時に交付、身分証明書を兼ねているもので、軍人としての心構えや公的記録としての兵役中の履歴などが掲載されており、勝手に手牒に書き込むことは禁止されていました。
 また個人での保管を義務づけられ、故意に破損や紛失したりすると賠償した上で懲罰に処すると書かれており、大切に扱わねばなりませんでした。
 そして「軍人勅諭」(明治一五年に下賜)や「教育勅語」等が手牒に掲載されるようになり軍人の精神規範となるものだったので暗唱するよう命じられます。昭和一七(一九四二)年には「生きて虜囚の辱めを受けず」の一文のある「戦陣訓」が掲載され、軍人の精神主義を強調させています。
 戦況が不利になるにつれ、海外での戦地では機密保持のために機密文書と一緒に手牒を燃やすように命令が出たようです。
 一方、沖縄戦で移動中に大雨でずぶ濡れになり「負けているし必要ないだろう」と思い、暖をとるために軍隊手牒を燃やしたという話も聞いたことがあります。
 丁重な扱いを命じられた手牒でしたが、去る大戦で戦火にあい現存する手牒は少ないようです。
広報おきなわ(№420)/2009年(平成21年)6月号
【写真キャプション】軍隊手帳

戦後文化シアター 今月のヒストリート「不発弾」


 終戦直後の沖縄はいたる所に不発弾が散在。屋敷内や畑にさえゴロゴロしていたため、不発弾は子どもの玩具として普通に使われていました。手榴弾は信管を抜いたり、海に投げ込み爆発させて遊びました。また銃弾から抜き取った火薬に火をつけて燃やす遊びが流行。しかし、時には暴発して死んだり、手足を失った者も…。一九五五年四月、本市比屋根でも子どもたちが拾った手榴弾をいじって爆発し、六人が死傷する痛ましい事故がありました。
 さて今年は不発弾に関する事件・事故が相次ぎ、世間の耳目を集めました。小学生による学校への不発弾持ち込み、観光中の大学生による旅客機や離島への不発弾持ち込み。糸満市では工事中の重機が不発弾に触れて爆発する事故が起き、二人の重軽傷者が出ました。更に米軍基地内(キャンプ・シュワブ)でも処理準備中の不発弾が爆発し、兵士三人が死傷。不発弾爆発事故といえば、七四年三月に那覇市小禄の幼稚園で起きた爆発事故が、幼児を含む多数の死傷者を出した大惨事として県民の記憶に残っています。
 このように大変危険な不発弾ですが、第二次大戦で激しい地上戦が繰り広げられた沖縄には、今なお二五〇〇トンの不発弾が埋没し、その処理に今後八〇年はかかると言われています。
広報おきなわ(№419)/2009年(平成21年)5月号
【写真キャプション】当時の子どもたちは、危険な不発弾を玩具代わりにして遊んでいた。

戦後文化シアター 今月のヒストリート「米軍中将旗」


 写真は米軍中将の階級を表す三つ星の旗です。
 この旗は高等弁務官専用車に弁務官を表す旗と共に付けられていました。
 高等弁務官とは一九五七(昭和三二)年七月に出された大統領行政命令により制定された米国統治下の沖縄における最高責任者のことで、当時の沖縄では絶対的な権限を持つ存在でした。高等弁務官制は七二年の復帰まで続き六人の中将たちが歴任。弁務官の統治姿勢は沖縄の人々の生活に多大な影響を及ぼしてきました。
 コザと弁務官との関わりを当時の新聞から拾ってみると、五九年五月、二代目ブース中将がモデル衛生部落に指定された中の町へ側溝排水施設費として一万一千ドルを寄付、六九年八月にはランパート中将が全国高校総体ボクシングで初優勝した中央高校へ祝電を送るなど住民との関わりもありました。しかし、七〇年のコザ暴動直後に出した弁務官声明に毒ガス移送中止をにおわせ、支配者であることを顕わにしています。
 写真の中将旗はまさに復帰直前の七二年五月上旬に蒐集されたもの。旗をつけていた専用車は最後の高等弁務官ランパート中将が利用したものでした。
広報おきなわ(№418)/2009年(平成21年)4月号
【写真キャプション】高等弁務官専用車についていた米軍の中将旗

戦後文化シアター 今月のヒストリート「照屋・BLACK IS BEAUTIFUL」


 一九五〇年代の終わりから七〇年代半ばまで続いたベトナム戦争の影響で、大変な盛況を見せていた沖縄市の商店街や歓楽街。その頃既に発生していた「黒人街」と呼ばれる地域は、照屋特飲街を中心として、コザ十字路周辺までの広がりを見せました。
 人種差別をめぐる黒人と白人の対立は、米本国で一九六〇年代半ばに始まった黒人革命と連動して激しさを極めました。若い黒人兵は「ブラック・パワー」を叫び、過激な運動を展開していきましたが、その渦に一般市民が巻き込まれてしまうこともしばしばでした。一九七一年八月には、「第二のコザ事件」と表現された大きな騒動も起こり、社会的地位の向上を目指す黒人たちは「ブラック・イズ・ビューティフル」をスローガンにますます強固に団結していきました。
 写真は一九七〇年八月、照屋にて撮影されたものです。背中を向けて立っている黒人男性のジャケットには、「ブラック・イズ・ビューティフル」と書かれた文字と、拳を突き上げる図柄の刺繍が施されています。
 このように、かつて沖縄市は米本国の影響が色濃くあらわれ、まさにアメリカを垣間見る時代があったのです。
広報おきなわ(№417)/2009年(平成21年)3月号
【写真キャプション】BLACK IS BEAUTIFUL(照屋・1970年8月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ミルク給食・ミルク缶」


 今回は戦後沖縄の学校給食で活躍したミルク缶を紹介します。
 一九五五年米国からの支援物資、脱脂粉乳により沖縄市の小学校ではミルク給食が始まりました。
 給食時間、一人びとりのカップに、ミルクを注ぐのに使われていたのがこのアルミ製のミルク缶です。最初の頃はミルクと言っても今のような牛乳ではなく、脱脂粉乳をお湯で溶かしたものでした。よく溶けていないとザラザラした感触が舌に残り、表面には膜が張り、さらに独特なにおいもあったため鼻をつまんで飲む子ども達も多かったようです。
 ミルク給食による小学生の体位向上の研究もされ、越来小学校が調査のモデル校となりミルクの有用性を実証しました。
 一九六九年から、生乳混合になるに伴い容器もビンに変わり、ミルク缶は姿を消していきました。活躍した期間は短かったのですが、当時の子ども達の栄養補給と体位向上に一役買ったミルク給食を、陰ながら支えた立役者です。今はヒストリートで子ども達の成長を見守りながら、皆様のお越しをお待ちしています。
広報おきなわ(№416)/2009年(平成21年)2月号
【写真キャプション】アルミ製のミルク缶

戦後文化シアター 今月のヒストリート「スクラップブーム」


 新しい年が始まりました。年末の大掃除で不用になったモノを捨てた方も多いのではないでしょうか。
 戦後、モノが無い時代に多くの代用品が生活を支えていました。「ヒストリート」にはトタン板に釘などで穴をあけ、木の枠をつけた下ろし金や薬きょうを利用した灰皿、飛行機の残骸のジュラルミンを利用して作られたヤカンや鍋などが展示されています。
 米軍は沖縄戦で三〇〇万トンを越す鉄を投入したといわれており、戦後はスクラップの島と呼ばれてもおかしくない状況でした。一九五〇(昭和二五)年に米軍は大佐クラスの米軍財産処理将校を任命し、国際入札に付しています。
 朝鮮戦争の影響等でくず鉄が高騰し、県内もスクラップブームが到来。ただの鉄くずが宝へと変わったのです。
 スクラップは沖縄経済に大きく貢献し一時は砂糖キビ以上の本土向け輸出産業となりました。市内でも鋳物工場が興り盛況をみせました。
 「妊婦だったけどスクラップを探しに立入禁止区域に入って捕まったことがあるよ。でも生活の為だからね」という話を聞いたことがあります。
 山野に放置され、あるいは沈没船に積まれていた砲弾で爆死した人もいました。戦争遺物は姿を変え戦後生活に潤いと悲劇をもたらしました。
広報おきなわ(№415)/2009年(平成21年)1月号
【写真キャプション】トタンおろし金