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戦後文化シアター 今月のヒストリート「石川文洋 写真展を開催いたします。」


 今年は本土復帰から45年の節目の年です。今月よりヒストリートⅡでは、企画展「石川文洋(ぶんよう)写真展」を開催。石川氏が撮った復帰前後の写真を含め、これまでにヒストリートで紹介した写真の中から選び、展示いたします。
 報道カメラマンの石川文洋氏は、ベトナム戦争の従軍取材による多数の報道写真で知られますが、撮影対象のジャンルは広範囲に及び、各国の紛争地帯での取材のほか、人々の日常生活、舞台芸能の写真なども撮影しています。石川氏は故郷沖縄も度々訪れ、復帰前後の沖縄では、世替わりの様子を記録に残しています。
 復帰直前のコザでは、米軍関係者間の人種差別による集団乱闘やトラブルが絶えなかったのですが、地元が自警団を組織し、その防止にあたっていたほか、民警察や米憲兵隊の厳しい取り締まりが効果を上げ、復帰を迎える頃には平静を取り戻していました。
 写真は、復帰の日のコザ市(現沖縄市)のセンター通り(現中央パークアベニュー)のひとコマ。 復帰の日は、一日中雨が降っていましたが、米国人たちは傘もささずにリラックスした雰囲気で通りを闊歩(かっぽ)しています。平静さが伺える1枚です。

広報おきなわ(№514)/2017年(平成29年)4月号
【写真キャプション】1972年5月15日 コザ市  撮影:石川文洋

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『沖縄市のユーフルヤー(風呂屋)』、開催中」


 今回は「ユーフルヤ―」、沖縄市の風呂屋物語を振り返ってみましょう。復帰前までは多くの村に「ユーフルヤ―」があり、庶民の憩いの場になっていました。最も多かった時は、市内(旧美里村と旧コザ市)に30軒以上もの風呂屋がありました。
 室内の壁には、「湯池に入る前に必ず体を洗ってから入る事」などの「入浴心得八か条」が掲げられ、大人は浴場で騒ぐ子どもがあれば叱ったこともあったそうです。 風呂場は社会的な実践教育の場でもあったのです。
 しかし、ガス瞬間湯沸かし器の普及が風呂屋に異変をもたらしました。復帰に伴う建築ラッシュによる家庭風呂の出現です。風呂屋の煙突が一つ消え、二つ消えと、かつての社交場が姿を消していきました。今では、それら「ユーフルヤ―」の建物跡が当時をしのぶのみです。
 そんな中でも、安慶田の「中乃湯」だけが県内で唯一、営業を続けております。子どもたちに湯船の気持ち良さを知ってもらうためにも、親子で入浴に出かけてみてはいかがですか。
 また、現在ヒストリートⅡでは「沖縄市のユーフルヤ―」の企画展を行っております。こちらへも、ぜひ親子での来室をお待ちしております。
※企画展は4月2日(日)まで開催

広報おきなわ(№513)/2017年(平成29年)3月号
【写真キャプション】現在の中乃湯(2017 年1 月28 日撮影)。湯煙を味わってみませんか?

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市の風呂屋」


 2月は沖縄でも冬風が吹いて冷え込みますが、そんな冬の楽しみと言えば「お風呂」ではないでしょうか。「ヒストリートⅡ」では企画展「沖縄市のユーフルヤー」を開催、街なかにふろ屋があった時代を振り返ります。
 かつて沖縄では入浴の習慣がなく、井戸や川での水浴びで済ませていたようです。市内では戦前から美里や泡瀬でふろ屋が開業していましたが、多くの人々にとっては身近なものではなく、正月などに行く特別な場だったそうです。それが戦後、市内の人口が増え都市化が進むと市内のふろ屋も急増、1962年には市内のふろ屋は約30軒を数えました。客も地域の住民から商売関係者までたくさんの利用客が集まり、様々な話題が飛び交うコミュニケーションの場として賑わいました。一方でふろ屋の営業には水不足、燃料や人件費の高騰、防犯というような悩みもあったようです。
 本土復帰を控えた1970年頃からは水道や家庭用風呂の普及が進んで家庭での入浴が一般的になり、街のふろ屋は次々と姿を消していきました。最盛期には300を数えたという県内のふろ屋も、今や市内に残る「中之湯」一か所のみが往年の雰囲気を留めています。 人々が集ったふろ屋から戦後コザの日々のすがたを今回の企画展でお伝えできればと思います。

広報おきなわ(№512)/2017年(平成29年)2月号
【写真キャプション】かつて越来にあった「越来湯」

戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市の沖縄戦の特徴」


 好評につき、企画展「沖縄市の沖縄戦とコザ孤児院」は、期間延長して開催しています。
 展示では、沖縄市の沖縄戦の特徴をデータで表しておりますが、そこで紹介しているデータは、1995年の糸満市の「平和の礎」建立に向けて、市内の各家庭を訪問して得られた情報を整理したものです。
 第二次世界大戦で沖縄市民は、5400人余が犠牲になりました。1940年以前から終戦後の46年以降にかけての年別戦没者数を見てみると、沖縄戦があった45年が3458人と全戦没者の約6割を占めています。この年の月別戦没者数は4月が最も多く、そして4月上旬(1~10日)の戦没者数が794人と、この月全体で7割以上を占めています。米軍は1日に本島中部の西海岸に上陸し5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯を占領しましたが、4月上旬の戦没者はこのときの米軍の攻撃や戦闘に巻き込まれたものと思われます。
 森根で沖縄戦の降伏調印式が行われたことと、米軍によるいち早い市内の制圧と同時期における戦没者の多発、そして早い段階での戦後生活の始まりが、沖縄市における沖縄戦の特徴といえるでしょう。
広報おきなわ(№511)/2017年(平成29年)1月号
【写真キャプション】降伏調印式跡地は、米空軍誕生50周年を記念し、1997 年に「平和の園」として整備された。嘉手納基地内

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『沖縄市の沖縄戦とコザ孤児院』、開催中」


 1945(昭和20)年9月7日、越来村(現・沖縄市)森根において執り行われた琉球列島(南西諸島)の降伏調印式によって、あの苛烈な沖縄戦は正式な終結を迎えました。ご承知の通りこの日は、1993(平成5)年に制定された「沖縄市民平和の日」の由来となっています。
 現在、ヒストリートⅡにて開催中の企画展「沖縄市の沖縄戦とコザ孤児院」では、本市における沖縄戦の状況や特徴、降伏調印式の詳細な様子と同時に、米軍基地に消えた式典跡地の変遷、戦後直後の市民生活、さらに戦世(イクサユー)を生き抜いた子ども達を、諸資料で紹介しています。左で紹介しているのは、1953(昭和28)年頃の「スティルウェル記念公園」の写真です。左下に白字で書き込まれた「”Vinegar-Joe”」(ビネガー・ジョー)とは何か、中央に見える小さな看板には、どのような事が書かれているか、展示室でぜひお確かめ下さい。
 企画展は12月28日まで開催。この一年の締めくくりに、戦後「基地の街」として特異な発展を遂げ、「コザ文化」を創出した我がまちの出発点を再度振り返ってみたいと思います。
 また来年新たな気持ちで、明るく平和なまちづくりを考えていきましょう。
広報おきなわ(№510)/2016年(平成28年)12月号
【写真キャプション】スティルウェル記念公園(現「平和の園」)/1953(昭和28)年ごろ、越来村森根/ウィリアム・マイベリー氏撮影

戦後文化シアター 今月のヒストリート「感謝の家、コザ孤児院」


 今月15日から企画展「沖縄市の沖縄戦とコザ孤児院」を開催します。孤児院は戦災孤児を収容した施設のことで、コザ孤児院は嘉間良にありました。孤児たちにとって、戦後の出発点となった場所ですが、今回は孤児院として選定された某家のことを紹介します。
 約25年前に同家の娘さんにお聞きした話しによると、1945年4月に島袋で「捕虜」となり、5月のはじめ頃に嘉間良の実家に戻ってきた時には、防衛隊の捕虜が収容されていたようです。ほどなく孤児が入ってくるようになり、兵隊は別へ移されたといいます。父は家主なので家の管理をしながら、子ども達を見てほしいと米軍から言われたようです。 その証言を裏付けるように、5月24日の米軍の資料には「家主は孤児院の長として、彼自身が筋の通った候補のようだ。地所の所有者として丁重に扱い、恰好の管理者になる確率が高い。彼はしばらくペルーに滞在していた為、スペイン語を話し、他者と比べていささか格も高い様子だ」と記載されています。
 家主は戦前に移民としてペルーに渡り、沖縄へ送金して立派な赤瓦の家を建てました。その家屋が、孤児院として選ばれたわけです。初代の玉城院長の就任まで、彼がその務めを任されていたのでしょう。「感謝の家です」と、孤児の方々が口々に言われる某家は、これからも彼らの心の支えとなることでしょう。
広報おきなわ(№509)/2016年(平成28年)11月号
【写真キャプション】コザ孤児院 1947年頃(資料:沖縄県公文書館)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「世界のウチナーンチュ」


 今月は第6回世界のウチナーンチュ大会が行われます。ヒストリートⅡでも企画展「移民・引き揚げ・インヌミ そして…〜インヌミ収容所公式開設70周年〜」のなかで、第1回から5回大会の歓迎イベントなどの写真を紹介しています。
 沖縄市からは明治37(1904)年に初めての移民をメキシコへ送り出し、昭和16(1941)年までに約3300人がハワイやペルーなどへ渡りましたが、敗戦を機に海外や日本の統治下にあった南洋群島や台湾、朝鮮など、また県外から沖縄へ引揚げ、インヌミや久場崎の収容所を経て帰郷することになります。
 しかし、焦土と化した沖縄で待ち受けていたのは貧困や米軍統治などの厳しい現実でした。民政府の政策や呼び寄せにより1950年代から再び理想郷を求めてブラジルやアルゼンチン等へ移民として渡っていきました。
 また同時期に、米兵と恋に落ち故郷を旅立つウチナーンチュも出てきます。「どうせ沖縄で苦労するよりは、誰も知らない遠くの地で苦労してもいいかなと思い、行くことにした。」移民調査で出会った、ある女性の言葉です。彼、彼女らの勇気もまた、世界で40万人いるといわれるウチナーンチュのひとつの萌芽となっています。
 企画展は今月30日までとなっております。ぜひお越しください。
広報おきなわ(№508)/2016年(平成28年)10月号
【写真キャプション】第5回世界のウチナーンチュ大会沖縄市歓迎イベントの様子

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『移民・引き揚げ・インヌミそして…〜インヌミ収容所公式開設70周年〜』、開催中」


 今回は、開催中の移民・引き揚げ・インヌミそして…〜インヌミ収容所公式開設70周年〜にちなんで沖縄市の戦前移民と引き揚げについて紹介します。
 戦前の沖縄では、第一次大戦後の世界恐慌に伴って糖価が暴落し、大打撃をこうむった農村から、大量の移民が発生しました。 移民先は、北米や中南米、東南アジアなど各地に及び、戦前・戦後を通して移民を輩出した沖縄は、日本有数の移民県と称されました。
 本市からも1904(明治37)年、メキシコへ移民した山内出身の比嘉さんを先陣に、41(昭和16)年までに約3300人がハワイやペルー、フィリピン、ブラジルなどに移民しています。 字別(あざべつ)には泡瀬が最も多く、比屋根、古謝と続き、三字で全体の36%を占めています。また日本統治下にあった南洋への自由移民や国策移民として満州国へ送出された人々も数多くいました。
 やがて日本の敗戦に伴い、移民先などの国々から日本人は強制送還されます。すでに米軍の統治下にあった沖縄でも17万人余の県民が引き揚げてきました。
 引揚者たちは全滅したとされる家族の安否と、将来に不安を抱きながらも久場崎港に降り立ちました。彼らは高原に開設された引揚民収容施設「インヌミ」を経て故郷へ帰り、自らの、沖縄の戦後復興にまい進します。
広報おきなわ(№507)/2016年(平成28年)9月号
【写真キャプション】最初の引揚者を歓迎する軍と民政府の職員たち(1946年8月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「インヌミ収容所」


 今年10月は、第6回世界のウチナーンチュ大会が開催されますが、これに合わせて「ヒストリートⅡ」でも戦前・戦後の移民や沖縄への引き揚げなどを紹介していきます。今回は「インヌミ収容所」を紹介しましょう。
 戦争が終わると、移民や兵役、疎開などで県外・海外にいた人々が沖縄へ引き揚げてきます。その数17万人。その多くは中城村久場崎で船を降り、トラックでインヌミ収容所に運ばれます。収容所で名簿の確認と帰村手続きを受けて帰村を待ちますが、1日~数日のうちに収容所を出てそれぞれの地域に帰ることができた人もいれば、1ヵ月待つ人もいるなどさまざまです。
 引き揚げてきた人々の目には、沖縄はどのように映ったのでしょうか。例えば疎開先から帰ってきたある児童は、沖縄が「何もない」と聞き、九州で食器や鍋などの日用品を購入して持ち帰ってきたと言います。またある人は、船から見える夜の沖縄の明かりを見て 「戦争に勝った」と喜び、実際に上陸して現状を目の当たりにして絶望したという方、テニアンでの戦闘で家族を失い、悲しみの中ただ一人生きて帰って来たという方もいました。
 彼らがインヌミに滞在した時間はそう長くありません。しかしその名は彼らの記憶に留まり続けています。その意味を展示を通して考えてみませんか。
広報おきなわ(№506)/2016年(平成28年)8月号
【写真キャプション】インヌミ収容所のようす(『琉球人引揚げ計画の最終報告書』より)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『街を視る②―コザ十字路』、開催中」


 ヒストリートⅡで、企画展「街を視る②―コザ十字路」を開催中です。
 銀天街の裏には、かつて主に黒人兵が出入りすることから「黒人街」と称された米兵相手の歓楽街がありました。もともと、この街は白人も黒人も出入りしていたのですが、数年後、黒人は集団行動で白人を追い出し、照屋は黒人専用の街になりました。コザ十字路北の城前通りに は白人街が形成されることになります。コザ十字路の黒人と白人に分かれた歓楽街の様子を当時の新聞(1957年1月)は次のように述べています。
 「知花に通ずる13号路線(現、国道329号)はバー街20軒、照屋区が専ら黒人兵専用で一名黒租界(そかい)と呼ばれているのに対し同一帯は白人兵相手の白租界である」
 このように人種によって、コザ十字路には黒人、白人の歓楽街が存在していたのですが、もし黒人街に白人がまぎれこむと、よってたかって袋叩きにされ、逆でも同様な仕打ちをうけたそうです。その後、城前白人街は、度々黒人が集団で喧嘩を仕掛けてきたので、白人が寄りつかなくなって衰退。黒人街は復帰後もしばらく存続していました。
 「中部一の大衆市場」と称された十字路市場、通りを挟んで白人と黒人に分かれていた米兵相手の歓楽街…。ダイナミックだったコザ十字路の移り変わりをぜひご覧ください。
広報おきなわ(№505)/2016年(平成28年)7月号
【写真キャプション】黒人街の境界/中央の道路から左側が黒人街、右側が地元民相手の市場・商店街に分かれていた。照屋1965年