1946(昭和21)年7月1日、旧美里村(現沖縄市)高原にあったインヌミ収容所が公式に開設されてから今年で80年を迎えました。本市では、インヌミ収容所開設80年にあたり、企画展「沖縄市の沖縄戦、終戦の引揚げとインヌミ収容所」を開催いたします。

 1945年の沖縄戦において、本市(当時、旧越来村と旧美里村)は米軍上陸後3日間でほぼ占領され、民間人収容所の設置と米軍基地の建設が進められました。そして9月7日、南西諸島における日米両軍の降伏調印式が越来村字森根で行われ、沖縄戦が終結しました。しかし、その後も広大な米軍基地は残り続け、「基地の街」といわれる戦後の本市のすがたを形成する大きな要因となります。
 その一方で、日本の敗戦に伴い、海外で終戦を迎えた多くの日本人は、強制的に本国へ送還されることになりました。その数は、軍人・民間人あわせて、約660万余とも700万余にものぼるといわれています。
 1945年9月7日に降伏調印式が行われ、すでに米軍の統治下にあった沖縄でも海外や日本本土から多くの人々が引揚げてきました。その数は、1949年までに約17万人にのぼりました。1945年12月末の沖縄の人口は、約32万人。つまり沖縄戦で甚大な被害を受けた上、米軍によって家や故郷を奪われた人々が、民間人収容所などで身を寄せ合って暮らしている状態のこの小さな島に、人口の半数を越える大勢の引揚者が着の身着のまま押し寄せることとなったのです。
 そうした人々を受け入れるための体制や収容所が必要だったため、米軍は引揚港の一つとしてブラウンビーチ(久場崎港・中城村)を指定し、高原においては「キャステロ海外引揚民収容所(通称、インヌミ収容所)」を開設したのです。
 引揚者を受け入れたインヌミ収容所は、久場崎収容所とともに人々の帰村にともなう手続きや移動手段が整うまでの期間を過すための一時的な施設であり、引揚者の多くは両収容所を経由して故郷に帰っていき、戦後沖縄の復興の担い手となっていきます。

引揚者にとって、戦後生活の出発点となったインヌミ収容所を通じて、沖縄市の戦後史の一面を考えたいと思います。