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戦後文化シアター 今月のヒストリート「特別企画展『降伏調印・終戦70周年』、開催中」


 今年で第二次世界大戦の終結から70年を迎えます。この戦争で5,400名余りの沖縄市民が犠牲となっていますが、この数字を詳しく見ていくと、当時の人々のたどった戦争が一様でないことが分かります。
 全ての戦没者のうち、県内で亡くなった方は約6割の3,192名、そのうち激しい戦闘のあった中南部では2,363名が亡くなっています。北部でも590名が亡くなっていますが、その多くは避難先や収容所でのマラリアや栄養失調によるものでした。また、米軍上陸後も市内に留まり、犠牲となった方は一週間で386名に上ります。県外では307名が亡くなっていますが、この中には学童疎開船「対馬丸」の撃沈によって犠牲となった美東国民学校の児童54名や、本土での空襲や原爆投下による戦没者も含まれています。
 また、海外での戦没者が全戦没者の3割、1,760名に達しているのも本市の戦没状況の特徴の一つといえます。生活の糧を求めて「移民」として南洋の島々などへ渡った人々もまた、それぞれの地で戦争に巻き込まれたのです。
 ヒストリートⅡでは沖縄戦終結の瞬間「降伏調印」をはじめ、さまざまな記録や資料を紹介する企画展を8月8日(土)より開催します。展示を通して私たち沖縄市民にとって「『戦争』とは何なのか」を、この機会に考えてみませんか。
広報おきなわ(№494)/2015年(平成27年)8月号
【写真キャプション】戦没者の名前をたどる遺族の方々(中央公園内「慰霊之塔」、2013年10月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「オキナワンイングリッシュ」


 現在、ヒストリートⅡでは、『今日から、明日から。』と題して、企画展を開催中です。
 戦前の純農村から戦後「基地の街」への変化は、人々の暮らしにも様々な変化をもたらしました。言語の変容もその中の一つで、今回は、アメリカ統治によって発生した「オキナワンイングリッシュ」を紹介します。
 例えば、外来語と日本語を組み合わせた「ポークたまご」という言葉や、「草刈り」の事を「カットグラス」と日本語を基礎的な外来語に直して使用したりするなど、米軍統治下ならではの言語を多く生み出しました。
 写真は、沖縄市照屋のお店にあった表示です。一般的に「お手洗い」は「トイレ」の婉曲表現として用いられますが、ここでは、「WASH HAND」と表記され、「手を洗う場所です」と言う意味で使われています。
 アメリカの統治を経験した沖縄にとって、外国人と意思疎通を図ることは、商売をする上でも、生活する上でも重要な事でした。「何とかして伝えよう」という思いが、「オキナワンイングリッシュ」を生み出したのです。
 普段何気なく使っている言葉の中に、実は「オキナワンイングリッシュ」が隠れているかもしれません。展示会場で確かめてみてはいかがでしょうか?
広報おきなわ(№493)/2015年(平成27年)7月号
【写真キャプション】元Aサインレストランのトイレに置かれた、日本語を英語に直訳した表示(照屋/2001年)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『今日から、明日から。』、開催中」


 梅雨明け待ち遠しい季節です。沖縄地方の梅雨が明けるのは、平年通りだと6月23日、奇しくも「沖縄 慰霊の日」にあたります。
 県民にとってはすっきりしない天気だけでなく、戦争の記憶が強く呼び起こされる最もつらい月ですが、過去の経験を振り返り、今後の生活や社会のあり方を考える毎年の機会としたいものです。
 今月よりヒストリートⅡでは、企画展『今日から、明日から。』を開催いたします。
 本展では戦前期における市民の生活とはどのようなものであったか、そしてそれが戦後、どのように移り変わっていったのかを考えます。
 70年前の沖縄戦で破壊された純農村としての生活は、戦後復興を経て「基地の街」としての生活に転じました。
 写真は、米軍基地に消えた集落「御殿敷」の拝所です。1990年10月(旧暦9月)、米軍立ち会いの下で年中行事が行われました。
 御殿敷は、郷友会組織を立ち上げて、戦前期から続く伝統行事を継続しながら、ムラの共有地(拝所)を守ってきました。
 戦前から戦後を通し、コザ・美里の人々は、一変したり消えたりした街並みのなかで、「今日を・明日を」どのように生きてきたのでしょうか。一緒に考えてみませんか。
広報おきなわ(№492)/2015年(平成27年)6月号
【写真キャプション】御殿敷の旧九月九日行事。鳥居の下で米軍が待機する(1990年10月)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『石川文洋が見た沖縄』、開催中」


 1960年代から現在にかけて、度々来沖し、沖縄をテーマにした写真を撮り続けている石川文洋氏の写真展「石川文洋が見た沖縄」展がヒストリートⅡで開催中です。
 3月の新聞紙上において「沖縄の核 発射誤命令」という報道がありました。これは、62年に起きた「キューバ危機」の際、沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現地指揮官の判断で発射が回避されたという内容でした。誤発射命令が出された同年10月28日はキューバ上空で米軍偵察機が撃墜され、緊張が最も高まった時期で、米軍内に混乱があったとみられています。
 写真の黒いスパイ機SR71は、キューバ危機で撃墜されたU2偵察機の後継機で、同機の撃墜事件を受け、高々度で超音速飛行を行い、ミサイル迎撃を回避することを目標に開発されました。SR71は嘉手納基地にも配備され、2万4000㎞の高空をマッハ3以上で飛行し東アジアや東南アジアの偵察にあたり、その異様な形状と夜間に出撃することから、現地部隊では「ハブ」(Habu)と呼ばれていました。その後、運用コスト高や偵察衛星の進歩により、90年には嘉手納基地から姿を消し、98年に正式に退役しました。
広報おきなわ(№491)/2015年(平成27年)5月号
【写真キャプション】黒いスパイ機 嘉手納基地 1989年 撮影:石川文洋

戦後文化シアター 今月のヒストリート「Aサイン入りの焼酎「白鷺(しらさぎ)」」


 先月に引き続き「Aサイン」に関連したモノ資料を紹介します。
 本土復帰前のコザの歓楽街は、米兵達で大いに賑わい、多くのAサインの店が立ち並んでいました。「Aサイン」とは米軍人・軍属が立ち寄っても良いという許可証の事で、米兵相手のバーやキャバレー、ホテルなどには必ずそれが掲げられていました。米軍の許可制度は米兵相手に商売をする店に限らず、ベストソーダやミッションコーラなどの島生産の清涼飲料やお酒の販売にも及びました。左の写真は同じく米軍の許可を得て基地内外で販売されていたAサイン入りの焼酎「白鷺」です。
 1958年に白鷺の販売が開始されると、60年代前半には米兵達に絶大な人気を誇り、酒類の中で最も多く飲まれる銘柄となりました。味はジンやウォッカに近く、アルコール度数30%で匂いも強いことから、通称「爆弾」と呼ばれ、コーラやソーダで割って飲むのが一般的だったようです。
 Aサイン入りの焼酎「白鷺」の他にも、戦後の沖縄市の歴史を語るモノ資料は、ヒストリート本館とヒストリートⅡに展示しています。ぜひ、みなさま足をお運び下さい。
広報おきなわ(№490)/2015年(平成27年)4月号
【写真キャプション】焼酎「白鷺」

戦後文化シアター 今月のヒストリート「Aサイン」


 「沖縄市戦後文化資料展示室ヒストリートⅡ」では3月31日まで「石川文洋写真展 沖縄からベトナム、そしてコザへ」を開催しています。ベトナム戦争に向かう米兵たちで賑わった当時のコザの街は「ドルの雨が降る」と言われるほどの隆盛を誇りますが、その米兵たちが集まった店舗には「Aサイン」(左写真)が掲げられていました。
 「Aサイン」とは、米軍当局が米兵の出入りを認めた飲食店などに発行する許可証のことで、「Approved(許可)」の頭文字です。米軍は米兵の衛生・健康管理を目的として店舗の衛生管理に厳しい基準を設け、これをクリアした店舗だけに米兵の出入りを認めました。例えば店はコンクリート造りで、男女のトイレは別に設け、流し台もステンレス製と指定されました。抜き打ち検査も頻繁に行われ、「トイレの故障」「水道のお湯が出ない」「コップの汚れ」と、細かな部分までチェックしていたようです。「基地の街」の象徴ともいえる「Aサイン」ですが、米兵相手の商売は一筋縄でいくものではなかったようです。
 本土復帰直前の1972年4月にAサインは廃止されます。その後の円高の影響もあって米兵客の足取りも遠のき、街のようすも変わっていきました。「基地の街」から「国際文化観光都市」へ、沖縄市は新たな歩みを始めていくのです。
広報おきなわ(№489)/2015年(平成27年)3月号
【写真キャプション】Aサイン証

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ベトナムと沖縄」


 今年は沖縄戦終結から70年、そしてベトナム戦争終結から40年の節目の年です。現在「ヒストリートⅡ」では、報道カメラマンの石川文洋氏が撮影した「沖縄とベトナム戦争」をテーマにした企画展を開催しています。
 東西冷戦を背景として1960年に始まったベトナム戦争は65年、嘉手納基地から飛び立つB52による北ベトナム爆撃の開始で、在沖米軍の介入が本格的なものとなりました。戦闘は「南ベトナム解放民族戦線」のサイゴン陥落によって、75年に終結しました。その犠牲者は300万人以上ともいわれています。
 ベトナムと沖縄。かつて戦場になった両地には戦後、不要な軍用機の残骸がいたる所に散在していました。人々はその軍用機の材料となるジュラルミンを鋳直して、様々な生活道具を作り始めました。
 沖縄ではナベ・カマ・ヤカン等が作られ、ベトナムでも沖縄と同様に櫛・バリカン・そろばん等、多種多様な道具が生まれています。戦争の兵器が戦後になると、人を生かすための生活道具へと変わったのです。
 本企画展を通して、戦争や生きる力について考える機会になればと思います。
広報おきなわ(№488)/2015年(平成27年)2月号
【写真キャプション】ベトナムで作られたジュラルミン製のクシ

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『石川文洋写真展 沖縄からベトナム、そしてコザへ』、開催中」


 新年おめでとうございます。今年は1975年のベトナム戦争終結から、40年の年に当たります。そこで今回は、ベトナム戦争の報道カメラマンとして知られる石川文洋氏の撮影した沖縄の写真を紹介します。
 石川氏は沖縄県に生まれ、1964年からベトナムの取材を始めます。彼は従軍カメラマンとして多くの写真を残しましたが、同時に戦争の後方支援基地となった沖縄を多数撮影しています。その中には、基地の街である沖縄市を撮影したものも多く、嘉手納基地からベトナムへ出撃する米兵、一時帰還兵で賑わう旧コザ市街地、葛藤の中で復帰を迎える人々など、当時の揺れる沖縄の社会が切り取られています。
 下の写真は1969年、嘉手納飛行場に隣接する黙認耕作地を写した一枚です。彼がとらえた風景は、沖縄戦が終わり20年以上を経てもなお、戦争と関わらざるをえない沖縄の姿でした。この写真から46年が過ぎ、沖縄は戦後70年の大きな節目を迎えています。
 ヒストリートには石川氏の写真をはじめ、多くの戦後資料を収集・展示しています。この機会にぜひ足を運び、二つの戦争と平和について考えてみてはいかがでしょうか。
広報おきなわ(№487)/2015年(平成27年)1月号
【写真キャプション】黙認耕作地・1969年【撮影/石川文洋氏】

戦後文化シアター 今月のヒストリート「孤児院の「なかま」」


 先月に引き続き「ヒストリートⅡ」では、企画展「戦世(イクサユー)の子どもたち~コザ収容所の孤児院~」を開催中です。
 激しい戦闘の中、肉親と離れ離れになった子どもたちは戦場で保護され、その多くがコザ孤児院に収容されました。砲弾が飛び交う戦場から生還し恐怖から解放され、束の間の安息を味わう子どもたち。残された写真には孤児院の広場で鬼ごっこをしたり騎馬戦をしたりして遊んでいる風景が写しだされ、どこか楽しそうな様子が見受けられます。しかし、一方で栄養失調により痩せ細り虚ろな目をした子どもたちの写真も残されています。また、ある証言によれば、前日まで一緒に遊んでいたのに朝起きると亡くなっている子もいたとあるように、病気やケガで亡くなっていく子どもたちも少なくなかったようです。
 戦場で肉親を失い、収容された孤児院でも多くの「なかま」を失った子どもたち。しかし、それでも逞しく戦後を生き抜いてきた方の話は実に考えさせられます。
 今回の展示を通して今一度平和について考えてみませんか。
広報おきなわ(№486)/2014年(平成26年)12月号
【写真キャプション】遊戯をする子ども(資料:沖縄県公文書館)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『戦世の子どもたち~コザ収容所の孤児院~』、開催中」


 「鉄の暴風」と形容されたあの沖縄戦から、はや70年が経とうとしている。今回「ヒストリートⅡ」では、企画展「戦世の子どもたち~コザ収容所の孤児院~」を開催しています。
 1945(昭和20)年4月、沖縄市嘉間良に民間人収容所・コザキャンプが建設され、収容所内に孤児院の設置が決定されるのは5月だった。焼け残った瓦葺きの民家を利用したコザ孤児院には、戦場で親や肉親を失った子どもたちが収容され、7月にはその人数が600名を越えていたとの資料もある。孤児たちは、その間、親戚や知人に引き取られたり、まったくの他人に引き取られ苦労を重ねた人もいたようです。45年8月の新聞には、孤児の将来を考えた養親探しへの協力記事が掲載されている。一方、正確な数字はわからないが、院内では大勢の子どもたちが亡くなっています。
 県内13か所に開設された孤児院で最初にオープンし、最大の収容人数を要したコザ孤児院は、1949年11月に沖縄厚生園に統合されるまで存在している。
 企画展は、これまでの調査成果や新資料・情報を通して多くの方々に見ていただき、あらためて戦争・平和とは何かを考える機会になればと思います。また、孤児院に関する情報もぜひお寄せ下さい。
広報おきなわ(№485)/2014年(平成26年)11月号
【写真キャプション】聞き取りを基に作成したコザ孤児院周辺と遊び場スケッチ