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戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「収容所生活下での軍作業」


 いち早く戦後生活が始まったキャンプコザでは、五月に入ると“十五~五五歳まで全員作業に出ること、そして怠けた者に対しては配給停止”と、半ば強制的に作業へとかり出されるが、人々はその対価として必要最低限の生活が保障されていくのである。
 約一年の無通貨時代をへて、一九四六年四月通貨制度が復活すると、同月の後半から失業者対策、職業調査などの記録が「山戸日誌」に頻出するようになる。五月に実施される賃金制の対策の一環であろう。様々な職の中で軍作業を希望し従事する人が多かったようであるが、その中には米軍によって土地を奪われた者も少なくなかった。
 五〇年七月の新聞記事に“離農者の最多は美里村(三〇二人)で、転職先は軍作業が圧倒的に多く、次に土建業”とある。五〇年代、基地建設ブームの到来とともに、相当の人々が職を求めてコザに集まってくる。「基地」によってコザの町は形成されていったのである。
広報おきなわ(№364)/2004年(平成16年)10月号
【写真キャプション】コザの労働者たち

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「戦後の洋裁技術」


 一九四五年十二月「ミシン調査、要至急。本人ニ使用サセル。本部ニ集メテ学童服、制作サセル」(仲宗根山戸日誌)。丁度その頃ワーナー氏はコザにおり、同氏も似たような回想録をのこしている。衣類に関しても事欠く状態の中、洋裁技術を存分に発揮した女性たちの最強の味方としてミシンはまさに百人力であった。そして、人々の基本的な「衣」を支えたことはいうまでもない。
 その後、一九四八年頃から洋裁学校が次々に開校し、どこもかしこも盛況であったようだ。市内でも同年二月、前原洋裁講習所美東分校(字高原)の生徒募集広告が新聞に掲載される。五〇年代になると洋裁店・テーラーの求人、ミシン販売代理店などの広告で紙面は大いに賑わう。ちなみに復帰前の七〇年、コザ市内には洋裁店が二三〇余軒あったという (Aサインバーもほぼ同数)。
広報おきなわ(№363)/2004年(平成16年)9月号
【写真キャプション】洋裁を担当する団体(古謝市)

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「必需品の配給」


 終戦直後、収容所生活を送る人々は、食糧や衣料品など、生活必需品の全てを米軍から配給されていた。しかし、生きるのに必要最小限の物資しか与えられず、人々は常に空腹感に悩まされていたようである。
 配給は、住民の生活を直接左右する制度であった。それだけに「配給停止」など、軍布告や指令を遵守させるための手段として用いられたり、田井等では食糧増を求める住民の要求に対して、食糧係のショウラウンド中尉がピストルをかざして占領者意識を丸出しに住民を威嚇した事件など、配給に関する様々なエピソードも生まれている。
 今月紹介する写真は、配給を受け取る人々の様子である。ワーナー氏はコザで主に配給を担当しており、軍需物資の余分や廃品を集めて人々に提供したりするなど、住民救助に尽力し、戦後の復興に大きく貢献した。
広報おきなわ(№362)/2004年(平成16年)8月号
【写真キャプション】古謝市にて必需品の配給

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「コザの演芸会」


 戦後間もない頃、米軍政府は沖縄諮詢会に沖縄芸能の復興と住民慰安を目的に芸能関係者を集めるよう命じた。戦火を逃れ九死に一生を得た住民は、焦土と化した沖縄で虚脱状態にあった。戦争ですさんだ人々を癒すためには物資の配給だけではなく、心のよりどころとなるものが必要だったのである。こうして各収容所では演芸会が行われるようになり、娯楽に飢えていた人々は先を争って露天劇場へ押し寄せたという。
 故仲宗根山戸氏(元越来村長、キャンプコザ八区区長)の日誌には「一九四五年十二月十六日、室川校デ市民慰安演芸大会」との記述があり、コザでも早いうちから演芸会が催されていたことが窺える。「Dance performance at Koza(コザでの演舞)」と説明書きがついているこの写真もこれら演芸大会のワンシーンなのであろう。
広報おきなわ(№361)/2004年(平成16年)7月号
【写真キャプション】1945年末~1946年頃(コザキャンプにて)

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「キャンプコザの墓地」


 写真はキャンプコザ(難民収容所)にあった墓地の様子である。
 終戦直後に来島したワーナー氏が、最初に赴いたのは古謝市(コザ)だった。当時、軍政府は公共事務等を処理するために市機構を整備し、難民収容所を中心として本島内に十二の市を設置していた。その一つが今の嘉間良を中心とした古謝市で、写真はその嘉間良一帯を写したものである。白い墓標が無数に立ち並んでいるが、おそらく沖縄戦で犠牲になった人たちの墓地であろう。日付のある墓標はすべて「四五年四月二十六日」と記されている。沖縄市域での戦闘は四月五日頃にはほぼ終わっていることから、それ以降にこれだけ多くの死者が出たとは考えにくい。おそらく埋葬した日付ではないか。
広報おきなわ(№360)/2004年(平成16年)6月号
【写真キャプション】キャンプコザの墓地

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「元海軍士官、ワーナー・B・バースオフ氏」


 今年四月、沖縄市は市制三○周年を迎えた。
 ますます発展する本市の特徴とはかつて「基地の街」などと称された戦後の時代で、基地依存経済下、異文化との融合によって強烈な個性をもつ街を形成してきた。現在、そうした都市個性・文化を活かした街づくりを本市は展望し、また国際交流の拠点づくりや中部広域圏における中核都市としての機能整備など、総合的な街づくりの気運が高まっている。
 さて、本市の都市個性を決定づけた戦後時代の始まりに、米国から沖縄の復興に燃えた若き海軍士官が着任した。その人、ワーナー・B・バースオフ氏(現ハーバード大名誉教授)の沖縄滞在は終戦直後の一九四五年十一月から翌四六年八月とわずかな期間であったが、戦災からの復興や住民の救助に携わり、沖縄の戦後復興に多大なる役割を果たした。彼は赴任地の古謝市(コザ)や石川市で活躍するかたわら、当時の沖縄各地の様子を撮影した写真を数多く残していた。それら貴重な記録写真の一部を、昨年五月のワーナー氏の来市にあわせて本庁ロビー等で公開し、同氏の文化講演会とともに大きな反響を呼んだ。
 来月号よりワーナー氏提供の写真の中から「コザ」を写したものを紹介していきます。お楽しみにっ! 総務課 市史編集担当(H)
広報おきなわ(№359)/2004年(平成16年)5月号
【写真キャプション】ワーナー・B・バースオフ氏

風のスケッチ・初心忘るべからず


 庭先のツツジが燃え咲き、傍らのブーゲンビレアも赤い花をつけた。冬の乾季が過ぎ大地にまかれた種子が芽をだす季節の到来である。入学に始業式、辞令交付に入社式とそれぞれに初々しい緊張がはしるなか、沖縄市役所でも人事異動と新人フレッシュマン約50人を迎え新年度がスタートした。
 平成の大合併を前に新たな都市づくりを目指す沖縄市は、4月1日に旧コザ市と旧美里村の合併・誕生から29年目を迎えた。「市民が主人公・市民と共に」を基本に市政が推進され現在12万余の人口を有する県内第二の都市となった。区画整理事業に上下水道の普及、図書館などの文化施設の建設、道路整備に都市公園と新しい街並が現れ、さらに中城湾や東部の海浜開発、IT関連産業の推進に歴史豊かな住環境の整備等、さらなる飛躍を展望している。一方、商店街等の活性化や資源ごみ処理方法を含む自然環境問題などの課題もあるが、社会人としての第一歩を踏み出した若い力に期待と精一杯のエールを贈りたい。
 新しい年度の始まりと本欄を閉じるにあたって、初心を忘れることなくと細川ガラシャ(と伝える)の歌をひとつ。
 散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ (美)
広報おきなわ(№346)/2003年(平成15年)4月号

風のスケッチ・廃品利用の先駆け


 戦後の物不足の時代、何でもリサイクルして使うのが当たり前だった。人々は自らの生活に必要な道具をそろえるために、身の周りにあった米軍物資や廃品に手を加えて創意工夫に満ちあふれた様ざまな生活用具(カンカラ三線、コーラびんのコップなど)を生み出した。
 建築物で、よく再利用されたものにコンセットがあった。「コンセット」とは米軍のカマボコ型兵舎のことで、兵員の移動によって民間に払い下げられ、学校・病院・役所などで利用された。コンセットは鉄骨・トタン葺きといった金属類で構成されていたので、夏は焼けつくような暑さだったという。だが資材不足のため、組立解体が容易で便利なコンセットは重宝されたようだ。
 1960年3月、嘉手納航空隊から同基地内のコンセット15棟が、コザ市内の小中学校の教育施設および公共施設の建築資材として無償譲渡される。小中学校では教室不足が解消されると喜ばれた。また、胡屋区青年会の協力を得てコンセット利用の園舎が造られた胡屋幼稚園では、これまでの間借り生活から解放され、のびのびと保育授業が行われた。その他、室川区や住吉区には公民館の建築用として、市には青年婦人会館の仮建築用にとコンセットは分配された。
 現在は物があふれ毎日膨大な量のゴミが出ているが、環境問題を考慮して分別・資源化によるゴミの減量化が展開され、さらに資源の持続的活用をはかる「循環型社会」への転換が提唱されている。不要品を捨てる前にリサイクルに長けた先人の知恵を見習い、廃品の有効利用を考えてみてはどうか。(H)
広報おきなわ(№345)/2003年(平成15年)3月号

風のスケッチ・灯火管制


 戦後の一時期、沖縄全島で灯火管制を含む防空演習が度たび実施されていた。「灯火管制」とは夜間、敵機の来襲に備え、地上の状況を悟られないように減光・消灯すること。
 戦時中の沖縄は頻繁に灯火管制が敷かれたが、敗戦と同時に明るい夜を取り戻した。だが、1950年6月の朝鮮戦争勃発によって沖縄は米軍の前線基地と化し、7月には軍命により沖縄民政府が灯火管制実施計画を樹立。各首長は住民地域での灯火管制の実施に責任を負い、同月から灯火管制が行われた。翌年1月には米国民政府が防空心得を通達し、各市町村での《警防団》設置を定めた。
 朝鮮戦争後も「敵の侵略から住民の生命と財産を守るため」に灯火管制は実施され、本市ではコザ署が管内の各自治体や消防隊などの関係者を集め、その打合わせを行った。
 59年2月12日の晩に行われた灯火管制の状況を、米軍機で視察した報道関係者が次のようにレポートしている。
 嘉手納基地を飛び立った米軍機がコザ上空へさしかかると、基地の街の灯がバタバタと消え下界の消灯が始まった。米軍機は南へ。牧港、那覇の街は墨をぬったようにまっ暗だが那覇を過ぎ、農村地帯に入ると点々と灯りが見える。飛行機の爆音に驚いてか、その上空にさしかかるとパッパッと次々に電気が消されていく。(再度)那覇上空に入った時、管制解除。一斉に電灯やネオンが点灯され、街や村は再び明るさを取り戻した。
 灯火管制、「9・11」以後の県内各基地や空港での厳戒態勢…。基地の島・沖縄は政治状況や国際情勢の変化により、これからも何らかの影響を受ける恐れがありそうだ。(H)
広報おきなわ(№344)/2003年(平成15年)2月号

風のスケッチ・泡瀬の製塩


 戦前戦後の泡瀬は、製塩業が盛んで「アーシマース」は県下にその名を轟かせていた。
 泡瀬の製塩業は200年余の歴史を有する。「泡瀬開拓の祖」とされる高江洲義正翁が、1767(乾隆32)年頃に泡瀬へ移住し、同地の開拓のかたわら干潟を利用して製塩を始めたのが泡瀬での製塩業の始まりであると伝えられる。泡瀬干潟は遠浅海岸で引潮の時に現れる浅瀬が塩浜に適しており、その立地条件に目をつけた人々が首里・那覇から移住して製塩業に従事した。1905(明治38八)年の塩専売制度の施行や製塩法の改良により泡瀬浜は塩田面積、竈数、製造高、価格ともに沖縄一の製塩地として成長する。
 1913(大正2)年1月、泡瀬塩製造組合が泡瀬市場で塩業奨励会を開催し、前年4月から12月までに3000斤(1800kg)以上の塩を納付した優秀な製塩業者(17人)に賞品を授与した。
 終戦後、米軍によって泡瀬の人々は故郷と塩田を追われ、家業である製塩業を断念せざるを得なかった。また、戦後続いた台風災害と米軍の道路工事などに伴う大量の砂利・石の採取によって製塩施設は壊滅し、塩田は荒れ放題。荒れ果てた塩田の個人整備が非常に困難であることや機械化による泡瀬製塩業の発展を視野に入れて、製塩会社の設立が図られた。同社の年間生産能力は5000トンに達し、県内需要の70%を供給。需要が増加するにつれ、原塩を台湾から輸入した。
 だが復帰に際し、塩専売制度の適用を受け沖縄の製塩業者は転廃業を余儀なくされた。今では、塩田埋立地の海岸に建つ泡瀬製塩の碑が往事の面影を残すだけとなった。(H)
広報おきなわ(№343)/2003年(平成15年)1月号