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戦後文化シアター 時代の交差点60th「『21歳のアメリカ将校が見た戦後直後の沖縄』」


戦後文化シアター 時代の交差点60th「『21歳のアメリカ将校が見た戦後直後の沖縄』」

 一昨年の五月十五日、三十一回目の復帰記念日に、市はアメリカからワーナー・B・バースオフ氏(ハーバード大学名誉教授)を招いて、講演会を開催しました。演題は「アメリカ人が見た終戦直後の沖縄」。彼は、沖縄戦が終結した一九四五年の秋に来沖し、およそ一年の滞在中、嘉間良と石川で沖縄の戦後復興に邁進した方です。来県を機に彼からは当時のコザの中心地で、その生活拠点でもあった嘉間良を主に百枚ほどの県内各地の写真と、海軍軍政府による沖縄統治の最終報告書(英文)、そして当時沖縄側の要職にあった志喜屋孝信氏(沖縄民政府の初代知事)や比嘉秀平氏(行政主席)からのクリスマスカード等々、貴重な資料を市に寄贈していただきました。写真の一部は去年、本紙上で「ワーナーさんの写真館」と銘打ち一年を通して紹介してきました。市では、これらの写真や講演録を初め、先のクリスマスカード等も含めて一冊の本にまとめました。左の写真はその表紙です。戦後六〇周年、皆様の蔵書に新たな一冊を加えてみてはいかがでしょうか。売切れが予想されます。早めにお求め下さい。
広報おきなわ(№374)/2005年(平成17年)8月号
【写真キャプション】定価¥1,000

戦後文化シアター 時代の交差点60th「オキナワン・イングリッシュ」


 戦後の沖縄で、米国文化の影響を受けて登場したものの一つにサンドウィッチショップがあった。ハンバーガーやホットドック、コーヒーなどの手軽な食事が大きな魅力で、今でいうファストフードの走り。
 一九六○年三月当時、サンドウィッチショップは沖縄本島だけで百軒余りを数え、その大半がコザや那覇に集中していた。両市では範囲五○m弱の間に数人の同業者が店を構えるほど、大モテだったという。他の飲食店に比べて開店までの初期投資の経費が安いこと、休日なしの二四時間営業ができたことが人気の理由。客の殆どが飲み屋帰りやタクシー運転手等の深夜業者で、歓楽街の多い「オールナイトコザ」にマッチした商売だったようだ。
 写真は城前にあったサンドウィッチショップ。ショップ(SHOP)が「ショープ」と表記されているのは(「シャープ」と表す例が多い)、米兵の発音をそのまま言葉に取り入れたから。こうした《耳英語言葉》は、他にストゥ(シチューのこと)、バフェ(ビュッフェ)、トゥーナー(ツナ)、アイスワーラー(お冷や)などがある。
広報おきなわ(№373)/2005年(平成17年)7月号
【写真キャプション】サンドウィッチショ-プ(1993年)

戦後文化シアター 時代の交差点60th「センター区」


 今回は、戦後に生まれたまち・センター区(中央)についてのご紹介。
 戦後間もない頃、軍用地であった八重島区の一部に、米国人と沖縄人とが自由に商取引ができる歓楽街(ビジネスセンター)設置の構想がなされた。当時の越来村が米軍に陳情して、一九五〇年に軍用地の一部が開放され、商業街としてのまちづくりがスタートした。
五一年六月に「センター通り会」が結成され、同年九月には八重島区から分離してセンター区が新設される。同区はAサイン業者を中心に栄えたが、復帰を迎え、基地に依存した経済に陰りが見えてくる。それに伴い、近代的な商業を目指して、「沖縄市一番街」や「中央パークアベニュー」などの地元民相手の繁華街に生まれ変わった。ちなみに、センター区とは行政区名であり、八二年の住居表示変更により、胡屋・上地・嘉間良・仲宗根の各一部が中央一~四丁目となった。
 戦後、沖縄市は基地の門前街として発展し、急激な都市化によって多くの新たな地名・まちが誕生した。それら地名の由来を調べてみるのも歴史を繙く手がかりになるのでは?
広報おきなわ(№372)/2005年(平成17年)6月号
【写真キャプション】1969年頃のセンター通り

戦後文化シアター 時代の交差点60th「モロミマーケット」


 戦後六○周年の節目にあたる今年、本市は市内に「(仮称)戦後資料展示室」を開設します。そこでは本市の地域カラーである「戦後」の写真やモノ資料などを展示し、戦後文化情報を発信することを目的としています。そして、地域の歴史・文化に対する理解や新しい文化の創造・発展を図るとともに、「沖縄市の未来像」を考えていきたいと思います。その一環として、今月より本紙上で写真などを紹介し、本市の戦後六○年の歩みを見ていきます。お楽しみに。
 写真は諸見南通りにあったモロミマーケットの様子(山里バス停付近、一九五○年代)。同マーケットは五三年にでき、翌年には諸見中央市場や山里市場が次々と誕生する。これら諸見地区の市場たちは那覇にヒケを取らないほど衣類・食糧品が豊富で、中でもモロミマーケットは地域の中心的な店舗機能を果たしていた。そのため、マーケット前は金武や石川、那覇からやってきた外人客の車が列をなし、普天間・北中城方面や北谷方面からの買い物客などで大いに賑わっていたという。
広報おきなわ(№371)/2005年(平成17年)5月号
【写真キャプション】モロミマーケット(1950年代)

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「嘉間良収容所」


 昨年からお届けしている「ワーナーさんの写真館」も今回でいよいよ最後となりました。
 さて、写真はわがまちの戦後の出発点ともいうべきキャンプ嘉間良の全景です。米軍は沖縄攻略の後、九州上陸を目指し中南部をすべて飛行場化する作戦を立てていました。そのため、米軍に捕らわれた中南部の人々は大半が北部へ移され、そこには彼らを収容するため多くの難民収容所が設けられていました。一部、知念地区を除けばキャンプ(収容所)嘉間良が南限ということになります。そこでは米軍の管理下とはいえ、村長、助役が選ばれ、あるいは市制が布かれる等、確かな戦後への歩みがありました。その沖縄の戦後復興に尽力した海軍軍政府の一員がワーナー氏だったわけです。市では、一昨年の五月十五日に感謝の意も込め、ワーナー氏をアメリカからお招きし、講演会を開催しました。その講演録と、彼から提供いただいた多くの写真をこのコーナで紹介した分も含め写真集を発刊いたします。お楽しみにお待ち下さい。
広報おきなわ(№370)/2005年(平成17年)4月号
【写真キャプション】キャンプ嘉間良の全景

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「越来村役場の職員」


 ニコッとカメラに収まる紳士淑女。おそらく越来村役場の職員たちであろう。左から二番目のハロー帽の男性は、仲泊良夫氏で、当時の古謝市(コザ市)の助役である。
 仲泊氏は与那原町出身で、戦前は「琉球新報」等の記者として、また戦後は雑誌「守礼の光」の編集を手がけている。一方で「琉球歴史」にも造詣が深く、さらに英語に堪能な人物としても知られる。「仲宗根山戸日誌」にも米軍関係者と沖縄各地を訪れている記述があり、その語学力を買われ通訳として同行していたのであろう。終戦直後の一九四六年九月、市制がスタートした。古謝(コザ)市長には泡瀬出身の歯科医中地庸之氏が就任し、前述したように、仲泊氏は助役に選ばれた。当時は難民収容所を中心に市制が敷かれ、他市町村出身の人が首長や議員になるのも珍しいことではなかった。戦禍をくぐりぬけ、沖縄の戦後復興に邁進する笑顔たちが何とも眩しい。
広報おきなわ(№369)/2005年(平成17年)3月号
【写真キャプション】左から2番目仲泊氏

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「海軍将校のテント」


 市民の皆様、広報おきなわのご愛読ありがとうございます。
 さて、昨年からお届けしている「ワーナーさんの写真館」。今回は何の変哲もないテントの写真。ワーナーさんによるキャプションには「一九四五年十一月から翌四六年二月にかけて私が住んでいたコザ村にある海軍将校のテント」とある。場所は現在の嘉間良一丁目あたりか。
 ワーナーさんは四五年の秋に沖縄へ赴任し、四六年二月には、ワトキンス少佐の行政補佐官として東恩納にあった軍政府司令部に勤務するため石川市へ移動した。つまり、彼はコザ時代の殆どを決して立派とはいえないこのテントで過ごしたことになる。「海軍時代はよかった」とは史家の話。沖縄の軍政が海軍から陸軍に移管されるのは四六年七月。沖縄の戦後復興に果たした役割はこの海軍時代が大きかったとの意味だ。沖縄のために奮闘した若き海軍エリートと貧弱なテント。このコントラストが微妙に可笑しい。
広報おきなわ(№368)/2005年(平成17年)2月号
【写真キャプション】ワーナーさんたちが住んでいた嘉間良のテント

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「キャンプコザ」


 一九四五年四月二日、嘉間良一帯に住民の収容所を設置した米軍は、収容地区を越来・室川・安慶田・照屋まで拡大しキャンプコザと呼ぶようになる。その中心部・嘉間良には村役場、本部事務所、警察署、郵便局に学校などが設けられていき、以後、収容地域は拡張され九月には古謝市(胡差市)が誕生する。
 四五年末、ワーナー(少尉)さんの勤務地である嘉間良には、各地からの難民と指導管理をする米将校たちがいた。
今回の写真は、その状況を知る一枚である。中央の道を挟み、右側が米軍テント群である。整然と立ち並ぶテントには、ワーナー少尉を初め海軍下士官の住居、食堂などが配置されていた。左側は戦禍を免れた家屋などを利用した住民エリアである。左手奥には民間人墓地も見える。
 ちなみに、翌年二月にはワーナー少尉は転属となり、米軍テントも無くなったという。
広報おきなわ(№367)/2005年(平成17年)1月号
【写真キャプション】嘉間良の収容所 1945年末頃

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「戦死者の墓」


 一九四五(昭和二〇)年暮れから翌年二月末日まで米国海軍軍政府のコザ地区事務所に配置されたスタッフ将校・ワーナー氏が、残した嘉間良の写真を紹介する。
 白く細い道は、嘉間良の中通りにあたり、奥の三角屋根は、支那事変(日中戦争)で戦死した人の墓である。近づくと左側に碑が建つ。「故陸軍歩兵上等兵嘉陽宗山君之墓碑」と記され、その裏には支那事変殉国之勇士、昭和一四年四月三〇日建立の文字が刻まれている。
 「無言の凱旋 盛大な慰霊祭」と題された昭和一四年の新聞記事に名前を見つけた。その日、出身地の越来村の小学校では村葬が執り行われ、村長をはじめ在郷軍人、多くの村民が参列し冥福を祈り勝利を誓ったという。幾度となく人々は勝利を信じ傷悴しきったことか。
 ワーナー氏は、何をおもいシャッターを切ったのだろう。(B)
広報おきなわ(№366)/2004年(平成16年)12月号
【写真キャプション】米軍テント(カバヤー)と後方には沖縄の墓

戦後文化シアター ワーナーさんの写真館「コザ地区軍政府管理事務所」


 写真左の建物は、海軍少尉であったワーナー氏が、一九四五年から四六年二月まで、アシスタント将校として勤務していたコザ地区軍政府管理事務所(キャンプコザ内・嘉間良在)である。終戦直後の軍政府の役割は住民への食糧の配給、仮住宅建設など、災害復興援助が主であった。
 幸いにも戦火を逃れたこの家は、この一帯では珍しい二階建てで、一階部分の柱は、石でできた頑丈な造りであった。
 この建物を拠点として、ワーナー氏は物質的援助に留まらず、米軍が帰国の際に捨てた映写機やスクリーンを利用して空き地で映写会を催すなど、人々の気持ちを癒す事にも心を砕いたようである。
 戦前・戦後と時代の大きなうねりの中で人々の暮らしの変化を見守ってきたこの家は、五七年に建て替えにより姿を変えました。
広報おきなわ(№365)/2004年(平成16年)11月号
【写真キャプション】Military government administrative office for Koza district(コザ地区の軍政府管理事務所)