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戦後文化シアター 今月のヒストリート「沖縄市の映画興行界」


 企画展「えいがかん」は先月末で終了しましたが、十二月一日は「映画の日」ということで、今月号も市内における映画興行界の話を続けたいと思います。
 かつて、コザ十字路一帯は五つの映画館と一つの劇場が集中していた興行の激戦区でした。
 戦後、コザ十字路一帯は家々が立ち並んで都市化し、発展していきました。その様子を見て、嘉間良にあった「自由劇場」が安慶田に移転してきます。また、照屋の新開地には、「第一セントラル琉映館」と「十字路オリオン館」が出現。映画館が建設された周辺には家並みが拡がり、人口が増えて様々な商売が繁昌し、興行施設はその一帯を都市化する先駆者的役割を果たしました。コザ十字路にはその後も「十字路国映館」、「コザ沖映館(後にコザロキシー館となる)」、「コザ琉映館」が建設されていきます。
 一九六○年代にはテレビ台頭やレジャーブームの影響による映画興行界の斜陽化の時期が訪れましたが、それを乗り切り、八○年代半ばまでコザ十字路には四つの映画館が残っていました。しかし、ビデオの普及などの影響で三館が姿を消し、現在は一館のみが営業を続けています。
広報おきなわ(№414)/2008年(平成20年)12月号
【写真キャプション】コザ沖映館(1960年代初期)

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『えいがかん』、今月まで開催」


 左の写真は泡瀬一区にあった美浦劇場です。今から六〇年前に無蓋の劇場として発足、その後写真のような建物になり昭和四〇年代初め頃まで地域の人々に芝居や映画という娯楽を提供してきました。六〇年前といえば終戦から三年、荒廃した人々の暮らしも少しずつ落ち着きを取り戻し娯楽を求める心の余裕も出てきたのでしょう。
 同じ頃、市内には収容所のあった嘉間良に中央劇場、故郷に帰村許可が出ないため北谷村民(当時)が多く居住していた南桃原には桃原劇場など人々の集まる場所に劇場が建ち始めます。一九五〇年代になるとその数は一気に増え五八年には二〇館を数えますが、六〇年代に入るとテレビの台頭や娯楽の多様化で映画館は次々と廃業に追い込まれ七〇年には半分に減少。振り返ると映画黄金期は十数年の短い期間でした。
 しかし、当時映画館に通った人々の心には忘れられない思い出が刻まれたようです。見学者からはヌギバイ(無銭入場)をみつかり顔にペンキを塗られた話、映画上映中のステージを駆け回った子ども時代など今ではあり得ない話が出てきます。企画展『えいがかん』は今月二九日まで!お見逃しなく!
広報おきなわ(№413)/2008年(平成20年)11月号
【写真キャプション】美浦劇場

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『えいがかん』、好評開催中」


 ヒストリート分室「しーぶんかん」で企画展『えいがかん』を開催中です。
 戦後、越来村は軍道5号線や24号線(両線は現在の国道330号に相当)などの軍用道路を主要動脈として捉え、十字路を核とした道路整備と商店街の配置に力点を置いての街づくりを考えていました。軍道の整備にともなって道路沿いは急速に家々が立ち並んで都市化され、コザ十字路から山里交差点に至るまで帯状の市街地が形成されました。一九五四年の越来村内の映画館や劇場の数は一二もあり、人口比で那覇を上回っていましたが、同年五月の新聞記事によると、同村で興行施設が多くなった理由の一つとして、「(越来)村の形態が細長く形成されていること」を挙げています。また、バス停留所付近は人口が密だったため、必ず興行施設が建設された、とも記事は述べています。
 今回、市内にあった興行施設の分布図も展示していますが、それを見るとバス停の近くに映画館や劇場があり、記事の内容を裏付けていることが分かります。ご覧になってみて下さい。
広報おきなわ(№412)/2008年(平成20年)10月号
【写真キャプション】映画館の入場券

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『えいがかん』、開催します」


 沖縄で戦後初の映画会社ができたのは我が市であったことをご存知でしょうか。一九四七年九月二六日のうるま新報に「映画来る/憧れの銀幕」の見出しで越来村一区の宮城嗣吉さん(後の沖映社長)が自宅で沖縄映画興行事務所を発足した記事が載っています。
 同年十月の新聞にはコザ中央劇場の名も出始め、五十年代から六十年代初期の本市には約三十もの劇場・映画館が林立していました。人口比で見ると那覇よりも多かったとされる背景には米兵たちの存在も影響していました。諸見里にあったパルム座は一日に千四百人を越える米兵を中心とした入場者があり、売店の売り上げだけで五名の経営陣に月百ドルから百五十ドルの給料を払っていたとのこと。当時の生活費が月二十ドル程度だったといいますから驚きの数字です。
 ヒストリートでは開室三周年企画展『えいがかん』を左記の日程で開催し、映画館マップや当時の写真、往年の邦画からアニメまで多彩なポスターを展示します。ぜひ、ご覧下さい。
広報おきなわ(№411)/2008年(平成20年)9月号
【写真キャプション】1954年オープンの諸見劇場

戦後文化シアター 今月のヒストリート「7・30交通方法変更」


 去る七月三○日、沖縄は「7・30交通方法変更」から三○周年を迎えました。交通方法の変更は、「一国一方式」の国際条約の遵守、また復帰に伴い本土~沖縄間の交流が増加する中、交通方法の違いによる交通上の危険防止を理由に復帰処理事業の一つとして実施を決定。だが交通方法の変更が県内に及ぼす影響は大きく、実施時期が近づくにつれ県民の不安・動揺は増大していきます。
 前夜から始まった通行区分の切り替え作業が済んだ後の一九七八年七月三○日午前六時を期して、交通方法が変更されました。米軍占領に始まり、復帰後の六年を含めて三三年に及んだ「車は右」の沖縄の交通は全国並みの「車は左」に変わり、日本の交通方法は統一されました。
 しかし交通方法変更は大混乱を招き、事故、交通マヒといった騒ぎが県内各地で続発。7・30から一カ月後の八月末になっても左側走行に慣れることは難しく、本市でも「生活のリズムが狂う」と住民から不満の声があがる一方、車の流れが変わったことによる営業損失など、経済活動にも大きな影響を与えたようです。
 新交通ルールはその後、県民の間に定着。復帰後の沖縄を大きく揺るがせた7・30は、歴史の一コマになりました。
広報おきなわ(№410)/2008年(平成20年)8月号
【写真キャプション】「車は右から左へ」の7・30マーク付きネクタイピン

戦後文化シアター 今月のヒストリート「ダッコちゃん」


 いよいよ夏本番となりました。皆様には海水浴やピクニック等で楽しい日々をお過ごしのこととご拝察いたします。
 さて、ヒストリートの「子ども達のコーナー」では、とても愛嬌のあるダッコちゃん人形が皆様の来室をお待ちしています。
 ダッコちゃんは一九六○(昭和三五)年四月に東京都で初登場。ビニール製で色は黒、それに大きな目でウィンクするのが特徴です。八月頃からダッコちゃんは生産業者が追いつかないほどの売行きで同年末までに二四○万個が販売される大ヒット商品となり、デパートや店頭ではこの人形を求めて長蛇の列をつくるほどの人気でした。
 本土のブームに遅れること約二ヵ月後の九月二十九日にコザ市の店頭にもダッコちゃんが現れ、早くもブームを巻きおこしました。輸入業者はあわてたのですが嬉しい悲鳴ということでしょう。
 ダッコちゃんブームのとき小学生であった女性の方は「誕生日とか十三祝いのとき、友人や知人からのプレゼントは殆どダッコちゃんで嬉しいのとショックで複雑な気持ちでした。でも腕やランドセル等につけてマスコットとして大切にしました」と語ってくれました。
 ヒストリートでダッコちゃんと、にらめっこしてみませんか。
広報おきなわ(№409)/2008年(平成20年)7月号
【写真キャプション】ダッコちゃん

戦後文化シアター 今月のヒストリート「九糎臼砲」


 六月になると二十三日の慰霊の日を控え、戦争犠牲者の鎮魂や戦争と平和について考えることが普段より多くなりますね。
 今月紹介するのは、その沖縄戦で使用されたと思われる九糎臼砲(左の写真)です。
 九糎臼砲は明治二四(一八九一)年に大阪砲兵工廠で試製され、日清戦争(一八九四~九五年)、日露戦争(一九〇四~〇五年)で活躍したとされます。ヒストリートに展示されている臼砲は大正五(一九一六)年に製造されたもので、沖縄戦後、米軍が戦利品として収集しズケラン基地内の博物館に展示していましたが、閉館の際に沖縄市へ寄託したものです。沖縄戦で九糎臼砲は独立臼砲第一聯隊に六門が装備され、西原・嘉数・前田高地に陣地を構えて米軍を迎え撃ち、南に移動しながら戦闘を続けましたが、昭和二十(一九四五)年六月十七日に「かくて精鋭を誇った独立臼砲第一聯隊も全滅の状態となった」 (『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』)とあります。激戦の中を生き残り、今、ヒストリートにひっそりと置かれているこの臼砲は、人々のどんな姿を見てきたのでしょうか。
広報おきなわ(№408)/2008年(平成20年)6月号
【写真キャプション】ヒストリートにある九糎臼砲

戦後文化シアター 今月のヒストリート「1973年5月、若夏国体」


 三十五年前の今頃、沖縄の復帰記念事業の一環として、「若夏国体」と名づけられた沖縄特別国民体育大会が行われました。若夏国体は〈強く・明るく・新しく〉をテーマに、一九七三年五月三~六日にかけて、十市一町で開催されました。開催にともない、全県下で体育施設の充実や選手の強化などがはかられ、県スポーツ界の向上に大きく貢献します。コザ市では、国体道路(現やまなか通り)が開通し、会場のコザ市総合運動場(現沖縄市コザ運動公園)の整備が進みました。
 国体開会前日の五月二日、市は北(越来中学校発)と南のコース(山内小学校発)からなる「若夏国体市民大パレード」を行い、市民総出で国体ムードを盛りあげました。そして四日より、市の会場においてハンドボール(高校女子)、軟式野球(一般男子)、サッカー(高校男子)が行われ、参加する者、迎える者が一体となって大きな成功を収めました。
 なお、展示室内のジュークボックスには若夏国体音頭『御万人そろって』が入っています。聴かれたい方はヒストリートまで。
広報おきなわ(№407)/2008年(平成20年)5月号
【写真キャプション】市民1000人が参加した若夏国体市民大パレード

戦後文化シアター 今月のヒストリート「「キャンプコザ」の三つの小学校」


 四月、新たな年度の始まりです。入学や就職など新生活がスタートした皆様にはこれからの道のりが希望に満ちたものでありますように!
 さて、左の写真は青空教室でオルガンを囲むキャンプコザの子どもたち。
 四月一日の米軍上陸地点から近距離にあった沖縄市は、いち早く米軍統治下に置かれ戦後とも呼べる生活が始まり、六月六日に古謝(当時、美里村)にあった収容所に古謝小学校が、七月には嘉間良(当時、越来村)を中心とした収容所「キャンプコザ」に三つの小学校が開校しました。当時の学校創立委員会の資料には、「一、創立 一九四五年七月十二日…中略…△コザキャンプニ 三校ヲ創立スルコト 第一校(本校) 第二校(室川) 第三校(安慶田) △本校はコザ第一小学校ト命名サル…中略…職員十八名 児童千百名…後略」とあります。
 三つの学校は、それぞれ場所や名称の変遷を経て、現在の越来小、コザ小、安慶田小学校となりました。
 写真に写る六三年前の子どもたちの中に見覚えのある顔はありませんか?
広報おきなわ(№406)/2008年(平成20年)4月号
【写真キャプション】1945年7月・キャンプコザの子どもたち

戦後文化シアター 今月のヒストリート「企画展『コザの刺繍展』、好評開催中」


 先月より「しーぶんかん」で企画展『コザの刺繍店』が開催されています。
 かつて、本市は「基地の街」と呼ばれ、多くの商工業者が外国人相手の商売に携わっていました。企画展で取り上げている刺繍店は、Aサイン業・質屋・スーベニヤなどと同様、基地の街ならではの特殊な商売として誕生、発展してきました。Aサイン業と同じく、刺繍店もベトナム戦争の頃は多くの米兵が訪れ大いに儲かっていましたが、Aサイン業とは違いオフ・リミッツや全軍労闘争など、基地に関わる事件によって客足が途絶えることは殆どなかったようです。しかし、復帰後は円高ドル安の影響で商売がなりたたなくなって廃業した店や邦人相手へ商売替えをした店がありました。
 このように、基地の街ならではの商売である刺繍店の誕生、盛衰が今回の企画展でわかります。残り一ヵ月の開催です。どうぞ、ご覧下さい。
広報おきなわ(№405)/2008年(平成20年)3月号
【写真キャプション】海兵隊マスコットであるブルドッグの刺繍と基となったデザイン画